ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代現近V遠近に高く、大正四年大典記念東京博覧会に於て総裁大正期の潮来町役場久遁宮殿下より銀杯を賜はり、十年鹿島行方醤油品評会に於て優等賞を授与せらる、昭第V-7図和三年常南六郡醤油品評会長より等賞、四年第四回同会長より優等賞を授与せられ、其る事廿余回に及ぶ、十二年行方鹿島醤油醸造組合長に挙げられ、十他賞牌を授けらる四年迄其職に在り尚大正五年農商務省より行方醤油醸造同業組合長を命ぜられ五年間在職、十四年大蔵省より宅地価調査委員を嘱託され、十五年水戸地方裁判所より小作調停委員を命ぜらる、書画を愛【今泉覚次郎】延方村長好し余暇あれば旅行を趣味とす(昭和五年『茨城人名辞書』)。鹿島郡大同村山口彦左衛門の二男に生る、延方村の豪族今泉新右衛門信安の養嗣子となる、少より学を好み性剛直果敢、年十六笈を負うて江戸昌平聾に学ぶ、南軒と号し学業大いに成る、史典に通じ尤も詩文に長ず、明治六年の秋、訴雨甚だしく利根川一円に氾濫し延方の耕地も殆ど冠水して収穫皆無に陥り悲惨極まり無し、氏之れを嘆じ村民と相謀り免租の運動を起こし凶荒の状を具陳し県庁に哀訴嘆願した、然し此の年は地租改正の時であ496り、各地にも此の種の農民運動の勃発しあるを以て却って之れを騒擾罪に聞はれ訴願は却下となりEつ百打ちの答刑を受くるに至り遂に此の運動は不首尾の結果となった、然し氏もとより不擦不屈の精結果翌年四月には免税の通知あり、神やむ事なく刑後も幾度となく上書して県政の非を弾劾した、其の一村此に漸く愁眉を聞き安んじて生業に就く事を得た、明治二十六年三月推薦され村長となるや真撃常に上下の間に相周旋し、大いに諸政を改革した、最も心を治水事業に注ぎ幾度となく丙号堤塘築造の議を県庁に申請するも許されず、遂に意を決し村民と協議の上幾多の弾圧をも廃し自財を傾けて夜堀工事まで為し、臥薪嘗胆の中に遂に此の築堤を完成し、治水百年の大計を築いた、故に村民の氏を見る事全く慈父の如くであり、大正期の津知役場其徳に慕いよる近隣の子弟には夜は灯下に孔孟の学を講じた(塾称を誠文堂といった)かくして氏の日常は村第V-8図政改革人事百般にと全く私生活に暇なかった、明治三十二年十二月三日偶々二竪の為め現職中に発る行年五十六歳、挙村哀慕慈父の喪に服