ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節植物潮来町は温帯の中でも温かい暖帯地域に位置し、植物の植生の概況水平分布上は暖帯林地域に入る。自然林に近い状態で残されている社寺林等でその構成の様子を調べると、暖地性植物のシイ、カシ類、ツバキ等常緑広葉樹が優占して樹林タプノキ、が形成され、暖帯林の特色がよく現われている。この様な森林は神社仏閣の領域内(社寺林)や台地が低地へ落ちこむ斜面に残された樹林、いわゆる斜面林として残されている森林で、貴重な自然財である。航空写真をもとに現在本町に残されている樹林の分布を地図上に示したのが第I18図であるが、}れでもわかる様に以前はマツスギ、雑木等の山林であった場所内宅地開発、ゴルフ場開設等により、その面積はいちじるしく減少している。私達の祖先は本町の台地を利用し、やせ地に耐えるアカマツ、クロマツコナラ、クヌギなどの植林をしてきた。クヌギ、ナラ林は一0 1O年に一度位木炭の材料として切り払われると、残された株が芽を出し物成木となり利用される。そのくり返しの中で落葉は集められて堆肥とされ、有機質肥料として田畑に施された。アカマツ、クロマツは建築用材にもなったが、多くは薪として燃料に生された。そしマツが植えられて育つ問、下草刈り、枝打ち、枯枝集め、第2章て枯れ落ちた松葉は上質な燃料として、農家のカマドには不可欠なものであった。冬期はこうした一年間の燃料集めに農家の人びとは忙しかっfここれは昭和三十年代の前半ごろまで続いており、たいていの農家には木小屋と称する燃料小屋があった。戦後の経済成長と共に燃料も様変わりし、炊事にも石油、プロパンガス、電気などが主となってきた。}のため松山に入って落葉を採ったり、立枯れ、枯枝も取らなくなり、下草も刈らなくなった。放置された松山は落葉などで肥沃土となり、やせ地を好む松には不適な土地となってしまった。昭和五十年代に入り、千年の緑を誇り、威風堂々、数百年の風雪に耐えてきたマツに全滅の危機が突如やってきた。マツノマダラカミキリに運ばれるマツノザイセンチュウの大発生によりみるみる枯れていったのである。おそらく誰もが予想しなかったこの異変に、薬剤散布、枯木の焼却など全力を尽しても処置なしの状態となり、多くの巨樹名木が次つぎと姿を消していった。マツの枯れた松山は、日光が容赦なく差し込みススキ、シノなどが繁茂し、またフジなどのつる植物までが伸び放題に伸びてからみつき、足の踏み入れられない状態のヤマになってしまったのである。かつて山林がよく管理されていた頃、松林の中でのきのこ採りや、木の実取り、そして可憐な草花を摘んだ思い出も遠いものになってきている。その上さらに休耕田、休耕畑の面積も増えて帰化植物などが侵入し、荒地化しているのが現伏である。しかし、そのままでは無価ただ現状を嘆くだけでは進展がないので、値に近い森林を生かして計画的に整備し、県民の森林または町民の森として利用し、自然に親しむ憩いの場とするなど対処していきたい。実際}の様な計画があると聞き喜んでいるものである。幸い潮来町の地形は、台地部に始まり低地住宅地へと移り水田から水39