ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代尽力し、新築費用中へ金百余円を寄付して無事新築の運びに至らし現め退職せり、是より先、或ひは所得税調査委員となり郡会議員とな近り、四十四年再びにして郡会議員に当選、郡参事会員に挙げらる、V現今任期中にして常に郡村の公務に参与し、地方開発の為め尽くすところ多し(大正四年『茨城人名辞書』)。【小沼熊蔵】大生原村長慶応三年六月一日を以て行方郡大生原村大字水原三十番地に生る、性頴敏活達、明治三十五年助役に挙げられ、任期中学校建築問題の為め幾多紛擾を重ね、村長為に退職する事両三回、村吏の苦心名状すべからず、氏は此間に処し常に村長代理事務に鞍掌し斡旋奔走遂に無事校舎の新築を告ぐるに至る、続いて四十四年十二月村長に累進す、以来熱心村自の発展に傾注し以て自治の目的を貫徹す、之れより先、三十七八年戦役事件の功労を以て勲八等に叙せらる(大正四年『茨城人名辞書』)。【小沼徹郎】大生原村長行方郡大生原村長、明治十一年二月二日同村大字水原に生る、大正十五年六月二十四日選ばれて現職に就きしものにて其聞社会的にも亦政治的にも尽くせし功労顕著なり、其の在職中のものを挙ぐれば、日本赤十字社茨城支部行方郡委員部大生原村分区委員、同収入委員、行方郡農会議員、愛国婦人会大生原村顧問、同村学務委員、青年会長、村教育会長、在郷軍人分会顧問にして更に経歴を列挙すれば、大生原村第二区長、同村農会評議員、同村会議員、同村消防第一部長、所得税調査員、行方郡会議員及び名誉職卓司~事AA員大生原村農AA長同村産業組Ar:J幹事fこり其聞の功労を特記すれば明治廿七八年の戦役に当り赤十字社救護事業実施に尽力して木盃一組、同社業拡張の為め同社長より置時計一個及び木盃一組、大生原小学校に寄金せる為め知事より木盃一個、村治功労者として同村長より銀盃一個、赤十字社事業に功労ありて社長よ498り銀時計、農事に尽くして本県農会長より記念品を贈られ又愛国婦人会有功章を親授、赤十字社特別社員に推薦さる、しかも政党政派を超越し公平無私以て村治に努める為め信望高く模範村長の称あり、一方衛生観念に厚く同村小学校庭に深さ百尺余の井戸を掘撃清澄なる飲料水を得、御大典記念事業として通学道路を開通したる等、等しく村民の喜ぶところなり、友鴎と号して漢詩を賦す(昭和五年『茨城人名辞書』)。明治二十年代初頭の町村合併による一町三村の成人口・戸数の推移立以降、現在に至る人口・戸数(世帯数)の推移を示したものが第Vl叩表である。茨城県における人口統計が統一的に完備する明治三十五年(一九O二)現在の潮来町域の現住人口は一万三四七七人、現住戸数二戸当りの平均家族数は六・一人であった。その一O年後の明治四十五年には人口一万四O一九人、戸数二一五七戸で、一O年前にくらぺ人口では四パーセントの増加を示すものの、戸数は減り、従って一戸当りの平均家族数は六・五人に増加している。その後大正中期までは順調に人口増加を示すが大正後期から昭和前期にかけて人口減少に転じ、昭和十年代に至って大正中期の水準を回復する。この間、戸数は漸増し従って平均家族数は減少、例えば昭和十年(一九三五)には五・八人の数値を示す。これはこの時期の農村の一般的現象ともいうべき農家の分家が活発になったことの反映であった。一方、}の第V lm表に示した本籍人口と現住人口の差により、出入多寡比較をしてみると、潮来町域一町三村ともに一貫して他出超過であり、典型的な農村型の人口動態を示す。とくに潮来町は第VH図にみるように大正中期以降極端な他出超過を示し、