ブックタイトル潮来町史

ページ
512/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている512ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

代現近V// L1現住人口,ノ/5000ト\.,. \. .(人)800070006000ワコHUA当ロHl町間e*12i井主旧潮来町の本籍人口と現住人口第V- l図潮来町大生原村2000k二ニ二二二二二二二ごと九百戸一一一『ζ二二二二三3・,-"延方村した町場の面影はない。かつて次のように記されるほどの繁栄をしめ人口動態の面からみると、刀口什HHAリF「HHT定作目1ムA全昭和6年昭和元年大正日年大正5年大正元年明治川初年4000明I台35年(人)6000津知村--------ーへ「ヤデ4000 ~~- - - - - - - ---常陸なる潮来の里は、東都五町街にならひし廓なり、朝夕の出船入もさらなり、香取、ふね落込客のぜんせいは、花のあした雪のゆふぺ、十六島々はいふかしま、息栖、てうしの浦々までも一まうにうかみ、富士筑波の両峰は西南につらなり、数十里てうまうの影墳なり、近き頃まで、銚子口より親船引きもきらず入津せし処なり、諸み存ず、侯の蔵屋敷建つづきしが、淵瀬かわりて船もいらず、唯仙台河岸のまた西の入口に潮浪里と呼小坂あり、うしほのさし引ある下とていや高き並木なり故に、左は名づけしならん、震より遊女町まで十余町、其聞を浅間いたこのばらばら松とて、沖乗船の目刀口判明44AF「nロザ京1τiaz昭和叩年昭和6年昭和元年大正日年大正5年大正元年明治判年。明治お年あての森とぞ、春は梅藤の名木、四季のな500がめいとよろし、此処より霞がうら信田の浮嶋手にとる知し(『潮来図志』)旧4町村の人口推移概して近代潮来町域の人口推移は第VU図にみるように停滞的であった。このことをさらに明らかにするために作成したものが第V!日図である。明治三十五年の人口を一OOとすれば、茨城県の人口は一O年ごとに一O九・四|第V-12図一二ハ・八|一二七・二と推移し、戦前期における統一的な県統計の最後となった昭和十四年(一九三九)に二二二・六となったのに対し、行方郡は一O三・九一O六・九一一四・二|一九・五と停滞、潮来町域一町三村の合計はに停滞したのである。第vm表に示したように潮来町の人口が二万人O四・二|九七・六|一O三・二|一一四とさらを超えるのは昭和五十年、二万五OOO人を超えるのは平成を迎えてからのこととなる。ちなみに大正九年、大正十四年、昭和五年、昭和十年の人口が減少するのは、国勢調査によって人口数の下方修正が行われた結果と思われる。職業構成以降のもので、は殆んどない。大正・昭和前期における潮来町域一町三村の職業構成を示したものが第V! u図および第V!日である。fこそれ以前の潮来町域の職業構成を知り得る統一的な資料だし、}れらは大正九年(一九二O)の第一回国勢調査まず大正九年の職業構成についてみると、潮来町は他の三村と異なり、