ブックタイトル潮来町史

ページ
513/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている513ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

140130120刀口柄引H AせF rnHμzna唱E48年A町場を反映して農業の占める割合が五二・六パーセントと低く、非現住人口の推移(指数)農業部門就業人口をわずかに上回るに過ぎなL、。」れにくらべて津ワコ円μnutr町禾,lt昭和6年大正日年大正叩年大正5年明治必年明治刊年。明治犯年日目知村、延方村の農業就業人口はそれぞれ七第V-13図0・六パーセント、七五・五パーセントらに大生原村は八一一一パーセントと圧倒的に高く、大部分の村民}とを示している。}れを所管の行方郡および茨城県全体と比較してみが農業に従事していたると、延方村が行方郡の平均値、津知村が茨城県の平均値の水準で、係となる。れを基準とすれば、潮来町が町場傾向、大生原村が純農村傾向の位置関昭和五年(一九三O)になると、潮来町の農業人口は四七・九パ1セン新しい時代の幕開けトとなり、非農業就業人口を下回る。なかでも商工業従事者は四一・一パーセントとなり、大正九年の三四・三パーセントから大きな増加を見せる。また、延方、大生原の両村は農業従事者が若干増加、津知村は大第I章正九年にくらべてほとんど変化が無かった。の平均値を見ると、農業就業者が大正九年に比べて増加しており、茨城この潮来町域を含む行方郡県全体が減少傾向にあるのと著しい対照をなしている。本節の最後に、潮来町域一町三村の村民生活の姿を村民生活の諸相)こにとりあげたのは当時の報告からみてみよう。明治末i大正前期に策定された「村是」(第二章第節で詳述)の「風俗」の項である(潮来町是は未策定のため、潮来町を除く)。また、村民生活に極めて密接な関わりのあった消防の問題については、昭和五年に編纂された『茨城消防発達史料』によって、の消防組の沿革を記しておこう。町村[大生原村の風俗]部落内組の組織は古来より地域によりて劃然区別ありて冠婚葬祭皆組内に於て互に相寄り相助て執行するを例とす、さ組内の戸数は少きは数戸より多きは数十戸に至る、知此組内の戸数多き時は更に十人組五人組等に区分し小組を造りしを以て交際の区域を限定す、是れ多数の集合団体は一方には自然統一を欠と同時に他方には経済上の点に於て至大の関係を及ぼすを以てなり、又交際上慣例に付ては冠婚等の吉事には主催者より親族及組内各戸を招待す、被招者は金銭文は物品を贈りて後酒食の饗を受くるを例とす、そ又葬式等凶事に関しては当事者一切関係せず、組長に於て組内各戸に通報し而して後集合協議の上親族に通報し且つ諸事を取計ふを例とす、これら吉凶事に於ける風習中従来悪習多く冗費乱用等の為経費多端の事少なからざりしも近来矯風節約の美漸く起り旧慣を打破するに至れり青年会以外にありでは講と称する団体数多あえ稲荷講、庚申講、御掛講、水神講等あり、稲荷講は稲荷神社を尊信する信者より成り、多くは一組或いは一部落全体の組織にかかれり、毎年二月午の日を祭典日と定め旗臓を立て祭杷を行ふを例とす、其経費の如きは神社附領の田畑の収入を以て之に充る、庚申講は各組に組織する細少な501