ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

社一社等あり、僧侶及神社は互に親睦を厚ふし気脈を通じて檀徒及氏子に崇仏敬神の念を鼓吹し大いに風紀の振粛を努め住民は毎年一月元旦には神社井に寺院に参賀するを慣例として今に旧慣を維持して宗教を重んじE又七月十五日には寺院にて大施餓鬼会を施行して祖宗の霊牌を祭り神社には十一月十五日に年々氏子にて大祭を挙行し夫々参拝して信仰を厚ふせり其他寺院神社等の建物破損せし場合には檀信徒に於て寄付を募りて保存維持居れり年思法会は忌服令に準じて夫々忌引に遠慮等をなす、血脈続きにより各等差を分てり、忌法会は一年三年七年十三年忌を追ひて法要を営むを通例とす、彼岸は春秋二季の皇霊祭日を中日と云へ前後通して一周日の間祖先の霊前に種々の供物をなし初中終の三ケ日には寺詣墓拝等をなし祖先の霊は意を慰め以て祖宗を崇拝せり、孟蘭盆会は従来毎年十三日十四日十五日の三日間にして一般の業を休み祖先の霊を祭るが例なり、今日にては陰暦を廃し陽暦に依りて之を実行せり、是宗教上祖先を尊重する点に於ても将文家庭教育上の方面より考ふるも道徳上尤も勉むべき慣例として重んぜるなり又村民一般に神社仏閣に対する信仰心の度厚く参拝旅行としては近くは鹿島神社、香取神宮及成田不動尊等にして、年に数回の参詣新しい時代の幕開けをなし遠くは相州阿夫利神社、野州日光廟、伊勢大廟、紀州高野山、讃州琴平神社等を巡拝するを一の慣例とせり(明治四十四年八月二十日設定『茨城県行方郡大生原村是』)。[大生原村消防組沿革]明治十七年八月大字水原に私設消防組を組織し東組と称し、人員五四人を以て編成し、雲龍水一個を購入し、第1章其当時組頭小頭の名称なく、只世話人二名を置く。明治四十五年五月二日告示二百五十七号に基づき、公設消防組設置せられ、第一部に属し、総人員五五名にして周年六月七日組頭部長任命さる。明治二十四年十月大字水原に根本組と称し、私設消防組なるもの組織、人員五五名を以て編成し雲龍水一個を購入し、其の当時組頭及部長なく小頭一名を以て組員の指揮をなせり。明治四十五年五月二日県告示二百五十七号を以て公設消防組設置せられ、第二部に属し、総人員五八名を以て現在の編成を見るに至れり。明治三十三年八月大字水原に北組と称する私設消防組を設置し、人員三O名を以て編成し、テレキl水一個を購入し組頭及部長なく、小頭一名を以て指揮せり。明治四十五年二月県告示第二百五十七号を以て公設消防組設置せられ、第三部に属し、人員三一名を以て編成、卿筒一台を購入し同年六月七日部長の任命ありたり。明治二十二年二月二十日大字釜谷に釜谷組と称する私設消防組を設置し、人員五O名を以て編成せられ、雲龍水一個を購入、組頭部長なく、只非常係三名を置き組員の指揮をなす。同三十五年二月初めて小頭なる名称を設けたり。大正二年九月十八日、県告一不第四百三十八号を以て第五部増設せられ、人員六O人となる。大正二年十二月一目、県告示五百四十七号を以て第六部四O人増設変更せらる。大正十年五月二十二日紀律厳粛熟達の故を以て、金馬簾一条授与さる(一部より六部迄)。昭和二年二月二日、大正十五年九月十五日より同月二十二日迄強盗窃盗犯逮捕に尽力したる功労顕著なるものと認め感状を授与さる(昭和五年『茨城消防発達史料』)。[津知村の風俗]本村は二大字を以て組織し風俗等も組に相同しきものL如しと雄も、大字築地は山間の部落にして全く農なるを以て生活の度も低く、大字辻は交通至便商工業全戸数の二割五分を占むるを以て生活の程度も比較的高きものL如し、然れども何れも性行503