ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代淳朴にして健訟の風なく皆能く其業を励み絶て華奮の俗を見、ず、特現に納税の知きは能く其義務を重んじ滞納等なく成績優良なるにより近其筋より表彰を受けたり、一組は多きは六十六戸より少なきは二十V八戸とし、各組に長を置き外に対しては組を代表し内にあっては組に係る一切の斡旋をなす、吉凶禍福の場合は富者は組内各戸二人宛の手伝を受け来者を饗し、貧者は大抵五人組及親戚にて之をなすを慣例とせり団体には大字辻に戊申報徳会、大字築地に実業友志会なる青年団あり、共に農事改良智識交換風紀改善勤倹貯蓄を目的として設立せるものにして現時報徳会々長は松波梧太郎、特別会員二十一人普通会員五十三名、友志会々長は江口半三郎にして会員三十二名なり、又各組内には鎮守講、水神講、三夜講、観音講、庚申講及日待講あり、毎月或いは毎年日を定めて講員輪番に集合して神を祭り会食をなし種々の談話知識を交換し解散するの習慣なり、其効果は即今日の農事風俗改良会等の如きものあり各大字に鎮守祭の式典あり、皆陰暦九月に之を行ふ、此の日は村民休養し客を招き互に歓を尽くす余興等これあらず、四十三年よりは陰暦廃止により陽暦に改めんとす、年忌法会等は三十五日忌百ケ日思一周年忌三周年思七周年思十三周年忌三十一周年忌五十一周年思等の別あり、富者は何れも親族及組内の老年を招き酒食を饗し故人の霊を弔慰し、貧者は寺院に至り布施を供へ法会を営むを慣例とせり、彼岸盆等には神葬の家にあっては春秋両季彼岸の際、仏葬の家は孟蘭盆の際各檀を設け供物を進め霊を祭り且寺院に詣り墳墓を拝するを風習とす、神社仏閣参拝の為め旅行する者に至ては交通至便の為め昔日の如く親戚知己相会し送迎の宴を張り又は隊を組み旅行する際の風習なきに至れり504本村に於ける宗教の関係は日蓮宗最も多く天台禅宗之に亜く今之を細別すれば全戸数二百八十八戸の内日蓮宗二百八十戸にして天台禅宗各四戸とす、而して村民の仏教を信ずる尤も厚く若し寺院にして破損等の事あらば各自応分の義摘をなし修理するを常とせり、特に大字辻の如きは旧水戸藩に於て一村一ヶ寺の制を立て潮来村恵雲寺の檀徒とせしより爾来子今他宗に帰するものなきなり該寺財産の管理及其他に至るまで尽く処理し来れり(明治四十四年七月三十一日『茨城県行方郡津知村是』)。[津知村消防組沿革]明治二十七年勅令第三十四号を以て人員六十四人を以て組織し、同年八月十五日秋永逸三郎へ組頭拝命、津知村消防組と称す。明治四十年三月十八日県令二十号を以て人員増員一五O人となる。同年三月二十九日組頭小頭一二人の任命あり。同年六月二十四日、県令第四十八号を以て水防兼務となる。二十七年八月、組織の当時は制規に依る服装なく、文機械器具の設備なく、榊原清衛が所有せる「テレキ水」を使用し居りしが、組織変更と同時に金高六O円を以て卿簡を新調し、同時に制規により機械器具を整理せり。明治四十五年四月一日県告示第百七十号を以て部数第一部より第四部に変更、組人員二八三名と変更せり。大正十五年四月十一一日、第一部に対し水災防禦の功労により、第二、三、四部に対しては紀律訓練優秀の故を以て、金馬簾一条宛認許せらる。昭和二年一一月二日、大正十五年九月十五日より同二十二日まで、強盗窃盗詐欺犯の逮捕に尽力したる功労顕著なるものと認め感状授与せらる。昭和二年十二月二十八日、津知村消防組第二部に対し、火災警防上の功労顕著なるものと認め、金馬簾一条を授与せらる。第三部に対