ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代現近第三節自由民権運動V徳川幕府を倒して新たに樹立された明治政府は、西欧列茨城の自由民権運動強に対抗するため、富国強兵・殖産興業のスローガンを掲げ、近代国家形成のための諸政策をつぎつぎと実行していった。その過程で、国家制度と科学技術を中心とする西欧の近代文明をまるごと取り入れたが、それにともなって西欧の技術や制度の背景ともいうべき自由主義・平等主義などの近代思想も必然的にはいってきた。このような近代思想は、明治十年代になり、中下級士族層・豪農層を始めとする明治政府に批判的な諸階層に受入れられ、自由と民権に基づく国家建設を目指す運動へ発展していく。「自由民権運動」である。その鳴矢となったのは明治七年(一八七四)の板垣退助、副島種臣等による「民撰議員設立建白書」の提出である。板垣等はこの建白書で、政府専制の弊害を批判し、天下の公論に基づく政治を行うために国会の設立を求めたのである。また、高知に民権政社・立志社を設立、明治八年には大阪に愛国社を結成して民権運動を全国に呼びかけた。当初、民権運動を推進したのは、高知県を中心とする明治政府に批判的な士族層であったが、やがて地租の軽減を求める地主層や商工業者も参加、国民的な運動へと広がっていく。茨城県でも、明治十三年初めごろまでに数多くの民権政社が設立され、活発な運動が展開される。県内最初の民権政社は、下妻町に明治十一年設立された絹水社(のち同舟社)であるが、そのほか同倫社(土浦町)、薫風社(笠間町)、共民公会、北辰社(水戸)、有隣社(折笠村)、公益民会(潮来村)、民風社(下館町)、噌鳴社(岩井村)、愛交社(久下田村)、茶話508会(諸川村)、改進社(守谷町)などがあった。}れら茨城県の民権政社には地域的な特色が見出されるといわれる(『茨城県史近現代編』)。ひとつここは早くから利根川、鬼怒川の水運が開け、東京との結びつきが深く、物資の流通や文化の流入も盛んであった。この地域の代表的な民権政社である同舟社や噌鳴社は水運の要衝である宗道河岸とは県西地域で、境河岸に設立され、東京の民権政社との交流も活発であった。「早クヨリ政治ノ思想ヲ通シ、本県元気ノ一陽来復ハコノ数郡ヨリ入ル、故-一結社結合ノ起リ、政談ノ開クル初歩ハ此辺ニ在リ」あるいは「豊田、猿島、葛飾ハ陸続志士論客ヲ出シ、西南地方ハ茨城県ノ高知ナリ」(明治十五年の『茨城日日新聞』)と報じられている。もうひとつは県北地域で、経済的後進性から保守的傾向をもっ地域であった。前掲茨城日日新聞には「海北三郡ノ如キハ人実着ニシテ堅固ナリ、進ムニ遅ク護ルニ厚シ、政治ノ思想猶乏ク結社結合頗ル稀レナリ」と報じられ、またこの地域の民権運動指導者であった、大津淳一郎起草の「輿民公会設立趣旨副書」の内容からは、水戸学に裏うちされた名分論H「国家に対するの義務」に立脚し、「他県人に侮られるな」と伝統への誇りに訴えて、民権政社の設立のをはかったことがうかがわれる(前掲『茨城県史近現代編』)。これらの民権政社による運動の中核をなしたのは、政府に対する国会開設の請顕であった。明治十三年二月、同舟社の呼びかけで、筑波山に国会開設請願を議するための会合がもたれた。「筑波山の会」という。参加したのは愛交社、薫風社、同倫社、公益民会、改進社などの代表二一人で、会議の結果、九条からなる「茨城県連合会決議書」が採択された。その内容は、国会開設のために県下八O万人の人民に対して、各政社が地域分担をして署名運動を行うというもので、「腰弁当切草蛙、