ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

軽々しく出立て、毎村戸長は勿論普通人民に至るまで洩らさず歴訪」(『東陸民権史』)して、精力的に国会開設請願の署名集めがはじめられた。そして、同年四月下旬までに、一万二OOO人におよぶ署名を集め、六月「国会開設の勅許を上願するの書」が太政官へ提出されたのである。国会開設運動の全国的な高まりに対して、明治政府は集会条令を定めて取り締まるとともに、明治十四年には国会開設の勅諭を出して一O年後の国会開設を公約した。}れをうけて民権運動は政党の結成へと進んだが、松方デフレ政策の影響下、経済的圧迫をうけた豪農層の運動からの離脱がみられ、一方、運動の過激化も同時に進んでいく。状況下、茨城県の自由民権運動は、地域的利害の対立のなかで分裂し衰このような退していった。明治十四年から十五年にかけて、民権運動の巾心的な活動家は県会議員として活躍していたが、県土木予算の治水費をめぐり県南派(河川党)と県北派(山岳党)に分れて抗争をくりかえし、内部崩壊していったのである。さらに過激化した一部の自由党員は武装蜂起による政府転覆をくわだて、加波山に蜂起した。これを契機として茨城の自由民権運動は壊滅していく。鉄道開通以前、水上交通の要衝であった潮来は、茨城公益民会県における自由民権運動の一拠点となった。明治十新しい時代の幕開け年(一八七九)二月、)の潮来の地に「公益民会」という民権政社が、藤岡彦之丞、石田潤之介、磯山清兵衛、関戸覚蔵、篠塚亀二郎らによって設立された。その中心人物である関戸覚蔵はその間の事情を、『東陸民権史』のなかで次のように記している。行方郡潮来町の公益民会、窪谷足穂、大崎新六、藤岡彦之丞、磯山第1章清兵衛、篠塚亀次郎、石田潤之介、長左一郎等が、鹿島行方二郡の有志者と共に組織せり:・凡そ此種の団体たる地方の門地家若しくは有力者の集合にして、其多きは三四百名少なきも一二百名に下らず、何れも皆政治思想の発展を目的とし、演説に討論に努めて公衆の鼓吹活動を事とせる焦心熱腸誠に賞すべき事共なり石川猶興によって紹介された明治十三年二月付の石川諒助宛入会勧誘状と「公益民会結合仮則」によれば(「公益民会結合仮則|潮来町・自由民権運動メモ」『ふるさと潮来』第二輯)、公益民会は「国権拡張」「国力振起」という国権主義的スローガンのもとに国会開設を政府に要求することを目的としていた。また、会の本部は潮来に置き、入会資格は「国郡村族職業ノ何タルヲ問ハス入会ノ志アル者ハ皆加入セシム」(仮則三章一条)一般に広く開放されていた。石川は同誌でこの仮則および勧誘として状発見の経過を次のように説明し、その内容の全文を紹介している。「:::端的にいえば、私は関戸覚蔵の名が埋もれてしまっているのが残念だった。父(諒一)が二十五歳で執筆し、未完のまま私の手許に残された自由党加波山事件の記録『加波激挙録』が豊にまみれているのが残念ζ』つh-04fJJこのため私は関戸覚蔵と石川諒一の復権を願い、自己の非力を顧みず、昨年一月『故郷発掘』を出版した:::『故郷発掘』出版後、私は生家の資料を整理していたところ、曾祖父諒助に宛てた公益民会への加入勧誘状と、活版刷りの同会規約を発見した」。拝啓此度国家社会ノ為メ別紙旨意之通リ公益民会上玄フ一社ヲ取立テ諸君ト倶-一国会開設等之事ヲ御協議一一及ハント欲ス御同意之上者至急御回答ヲ乞フ来ル三月廿一日ヲ以テ行方郡潮来村一一大会ヲ開キ社則其他之事件都テ諸君之不満足無之様相定メ度尤モ近日之内社員其御地へ出頭御面談ニ及プカ又ハ書面ヲ以テ詳細御通知ニ及プカ追々申上ル事情モ有之候得共指向キ御同意願度志願-一御座候且ツ農工商ニ拘ラズ加入為致候積リニ付最寄近村ノ有志者ハ遍ク御説得被509