ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第六章A=権第条本会ハ本会ニ関スル諸方法ヲ改良シ正副会長等ヲ精撰スルノ権ヲ有ス第条会長ハ総会員ヲ召集指揮スルノ権ヲ有ス第条各町村委員ハ該町村会員ヲ召集指揮スルノ権ヲ有ス第四条会員ハ自家ノ意見ヲ陳シ委員四名以上ノ賛成ヲ得テ臨時会開設ヲ乞ノ権ヲ有ス第七章A=費第条本会ノ出納計算ハ正副会長ノ責任トス正副会長ハ一ヶ年本会一一テ支消スベキ諸費ノ予算ヲ為シ各第二条町村委員ノ調査ヲ受ケタル後之ヲ総会員一一賦課シ金額ノ過不足ハ翌年二月精密決算ヲ遂ゲ定期大会ニ於テ遍ク総会員ニ報告スベシ第三条正副会長本会ノ事務ヲ取扱フ時ハ一人一一付三十銭ノ日当ヲ給スベシ但シ自宅ニ於テスルハ此限ニ非ズ第四条各町村委員ハ日当ヲ給セズ又委員及ピ会員ガ定期臨時ニ会ノ為ニ出頭シタル宿料等ハ自弁タルベシ第五条会費ハ一ヶ年一人ニ付金拾五銭ヨリ多カラザルヲ要ス明治十二年二月公益民会新しい時代の幕開け前項で述べた明治十三年(一八八O )二月の「筑波山の会」には、公益民会から石田、磯山、関戸、篠塚が出席した。そして各政社の地域分担による署名運動にあたっては、公益民会は行方、鹿島二郡を受持って遊説した。関戸はこの署名運動から前述の「国会開設の勅許を上願するの書」提出にいたる過程と太政官への提出状況を、『東陸民権史』で次の第1章ように記している。(明治十三年)四月下旬までに一万千八百十四人の同意連印を得、概ね戸長文は門地家にて、充分郷党を代表すべき人々なれば、愛に遊説を中止し、速かに請願委員を上京せしむる事こそ得策と衆議一致しける、於是て筑波の再会を見合せ、各社各会より請願委員を推挙し、飯村丈三郎、野手一郎、霜勝之介、増淵徴、渡辺豊八郎、遠山松吉、磯山清兵衛、関戸覚蔵の八氏其選に当る、飯村、関戸は県会の事に関して出づる事を果さず、五月十四日、磯山清兵衛潮来を発し、土浦町を経て下妻に到り、飯村丈三郎、野手一郎、赤松新右衛門、内田林八、柴孫次郎、渡辺豊八郎、霜勝之介等と会し、起草委員の手に成れる請願書、及び其捧呈の手順等を議定して、磯山先づ京に入る、野手は小学校教員たるを以て職を罷め、霜、渡辺、増淵、遠山と相次いで上京す、時に各地請願委員の輩下に滞留せるもの、二府二十四県と注せらる:::当時太政官への請願書、若くは元老院への建言書、無慮七十余通の多きに達す、而も其目的は国会開設を望むの一途にして、只其腫列せる文字の異同あるに過ぎず:・廟堂の有司は国会願望書が活天懸河の勢を以て、一斉に迫り来れるのみならず、海内雲合饗応の実あるを見て、容易ならぎる形勢とや驚きけん、俄に集会条例を発布して、政党政社の連結及び屋外の集会を厳に拘束:::顕官の国会願望者を視ること蛇蝿も雷ならず、尽く玄関払と為る、於是て太政官に請願し元老院に建言すと雄も、一に皆要領を得る能はす、民意上達の門牢として閉されぬ、府県委員の目的、全く巳に絶望の淵に沈み、往々憤滋を抱くに至り:::前後京を発するもの多し、野手、磯山等又帰県して、其顛末を県下の同志者に報告せり:::同志者は以為く、国家重大の願望、素より一回にして功を奏しがたきを期す、今績かに其初歩を試み、即ち以て願路杜絶せりと為すは、臣子懇々君父に訴ふるの義にあらずと、重ねて委員を511