ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代出たすことと為る、内田林八、篠塚亀次郎、関戸覚蔵、是歳八月南現上す、岡山の加藤平四郎、小林樟雄、新潟の山際七司、石川の稲垣近示、群馬の木呂子泰蔵、斎藤壬生雄、栃木の新井章吾等二十余名猶Vほ在京し、異口同音に日へらく、爾来余等百法手を尽くして運動したるも、彼有司は石仏に物言ふと均しく竜も感ずる所なし、無状此に至る、国民須らく非常の決心を示すにあらぎれば、憲政の樹立到底望む能はざるべしと、意気頗る激昂し、Eつ請願の無益なるを告ぐ、内田、篠塚等は県民輿望兎に角事に従はざるべからずとて、内閣(旧赤坂皇居内)に到る、衛兵門に在り拒んで入れず、是の如きもの十余目、最後一名の入門を許さる、是日篠塚、内田、関戸の三氏と稲垣示同じく行き、関戸総代として衛兵に導かれて入る、他は皆門外に仲立し居れり、斯くて関戸は内閣の応接所に控ゆること須奥、書記官出でて聞はく何用ぞと、答へて日く国家の重事に関し、大臣に面陳せんと欲して参上せり、願はくば是儀を伝達されんことをと、書記官乃ち去り、復た出でて臼く、大臣には御用繁なるを以て足下に面じがたし、小官をして承はれとの命なりと、関戸更に白して日く、生の上陳せんとする事体極めて重大なり、強て大臣に謁見したければ、暫し其闘を待たんと、午後四時を過ぐ、衛兵来り関戸を擁して門外に逐ふ、稲垣等路傍の茶屈にあり、呼で日く如何ん、関戸答ふ拒絶だと、因て相携へて去る、是より復た請願建議を言ふ者なし、山際加藤二三氏は発議を以て、向島牛御前の嗣頭に密会す、其会席予定せざるは探偵を避くるが為めなり、到れる者、茨城、群馬、秋田、石川、新潟、岡山諸県の委員十八名にして三々伍々墨堤を散歩し、魚十の後楼に登る、共に盟って日く、我々は徹頭徹尾国会開設の目的を達せずんば己ざるべし、則ち此国会開設の目的を達せんが為めには、政府顛覆の挙に出づるも、亦死生進退を閉じうせ512んと、各自氏名を自署し、指頭の熱血を注ぎて至誠を証明したる後、其血誓紙を火に投じて痕越を留めず、酒間時弊を痛憤し、悲風楓として起る、浅酌少時散すちなみに、」の『東陸民権史』によれば「国会開設の勅許を上願するの書」には、潮来町域から潮来村七三人総代窪谷足穂のほか潮来村一二人、築地村三人が署名している。それは次のとおりである。潮来村七十三名惣代同村平民窪谷足穂同惣代潮来村士族藤岡彦之丞同惣代同村士族石田潤之助同惣代同村平民篠塚亀治郎同惣代同村平民関戸覚蔵同惣代同村士族海老沢吉之丞同村平民川又彦兵衛同沼里平兵衛同根本富蔵同榊原吉右衛門大崎源四郎同同橋本橋介築地村平民岩本吉三郎同草野祐七同江口弥助(総代人)茨城県下常陸国行方郡潮来村平民磯山清兵衛このような国会開設運動の激化に対して政府は、前述のように明治十二年四月、集会条例の発布をもってこれに対抗した。}の集会条例によ