ブックタイトル潮来町史

ページ
525/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている525ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

って民権政社は政治活動に大きな制限を受け、反政府的な集会や演説を行うことは不可能となった。}のような状況下、県内の民権政社は解散を余儀なくされたが、種々の隠れ蓑をまとって蘇生していく。そして、明治十四年にかけて盛んに政談演説会を開催、集会条例による演題の不許可、演説会の中止等の弾圧を受けながらも茨城の自由民権運動のなかで最も活発な時期を現出させる。公益民会も研法社と改称、法律研究団体を名乗って人民を啓蒙するための政談演説会を数多く聞いている。当時の民権派系新聞に掲載された、潮来における政談演説会の景況を紹介しておこ=フ。去年二十九日午後七時より行方郡潮来村本宮かつの宅に政談演舌会あり弁士は輿論ノ抗敵天下何者アル人の振り見て我が振り直せ磯山清兵衛氏社会衰遷ノ大制ハ人法ノ得テ扉絶スル処-一非ス圧制ハ卑屈ノ人一一在リ石田亥太郎氏愛国ノ心ナキ者ハ夫レ禽獣一一塊ン乎窪谷国三郎氏蟻ニシテ猶能ク結合アリ人類社会宣一一結合ヲ要セザランヤ大場繁吉氏新しい時代の幕開け上ぺ塗ノ細工ハ大害ヲ来スノ媒介篠塚亀次郎氏等にて聴衆頗る多かりしと文此会を将来に維持せんとて目今醸金方法等目論見中のよし(明治十四年六月三日『茨城日日新聞』第七八号)さる十八日行方郡潮来に聞きたる政談演説会は聴衆殆ど三百人にして喝采の声雷の如なりしと其の論題は第1章潮来人民-孟ロク石田亥太郎国家ノ安寧ヲ謀ルハ腕力ニアラズシテ権力ニアリ磯山清兵衛警察官吏ハ教員ト同一ノ注意ヲ要ス関戸覚蔵(明治十四年十一月二十四日『茨城日日新聞』第二O九号)行方郡潮来村にては有志者同盟して研法社と称する一社を創立し専ら法律を研究し毎月六七回ツツの討論演説ありて傍聴人も多き処なるが去る四日は学術演説会を聞きたるに傍聴人百四五十名ありて大分盛会なるよし其演題弁士は租税論関戸覚蔵軽重ノ解窪谷国三郎学事ノ衰替を憂ヒテ潮来人民一一忠告ス関口英之介教育ハ自由ニ任ス可シ宮本字太郎(明治十五年一月十三日『茨城日日新聞』第二四七号)しかし、このように民権運動が最も盛んであった潮来に対して、次のような皮肉な見方もあった。行方郡潮来村に於て当今最も繁盛なるは娼楼にしても最も衰微なるは学校なり嘆息すぺし学校生徒は以前に較れば凡そ二分の一を減じたり曾て設けし教員協議会の如きも殆ど瓦解の有様にて之を茶菓子会と評するも亦た虚言にあらざるへし当村は民権家随分多く昨年国会開設の請願者も出せし地なるにその国家を憂ふる懐慨先生方が学事には少し尽力薄きを覚ふ先生方の創業を継ひて失はさらんことを望むものは唯た此の生徒なれは些と御尽力ありて然るぺしと小言を述べ奉る方今研法社と申す一社を設立し専ら法律を研究さる」よし(明治十四年十一月二十八日『水戸新聞』第一四号)そして明治十五年以降、前項で述べた茨城の自由民権運動が分裂し、衰退していくなか、潮来の民権運動も終息にむかう。明治十六年十月五513