ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代現近V日付『朝野新聞』は「民心を論ずれパ二三年前は集会演説盛んに行ハれ政社続々として起りしも昨年より民心萎麻酔して振ハず霜枯の有様の如し」(常陸国行方郡景況)と報告するのである。本節の最後に、前項に緩々述ぺたように潮来の公潮来の民権家肖像益民会の中心人物であると同時に茨城県の自由民権運動の指導者であった、関戸覚蔵と磯山清兵衛について、『ふるさと潮来』等に掲載された新荘桜涯氏や植田敏雄氏の業績に依拠しながら、その人物像を紹介しておこう。関戸覚蔵は弘化元年(一八四四)、水戸領潮来村の関戸主礼の長男として生れた。幼名を正勝といい、後に覚蔵と改めまた香渚とも号した。生家の関戸家は、潮来村の長百姓として年寄役を世襲し、村政を担う「八人頭」の家柄であった。このような名門に生れた覚蔵の少年時代は、潮来村在住の著名な学者であった宮本茶村の私塾で学問に励んだ。また、覚蔵の青年時代、水戸領内では天狗・諸生両派が激しく対立抗争をくりかえした時期で、親類縁者までが両派に分れ対立していた。関戸家もその例外ではなく、本家は天狗派、分家は諸生派に属した。当時潮来には潮来郷校があって天狗派の拠点となっていたため、諸生派に属していた514関戸覚蔵肖像覚蔵の生家は天狗派から迫害を受け一家離散の悲運にみまわれた。圧屋であった覚蔵の父主礼が生家に帰れたのは明治六年(一八七三)頃になってからといわれる。}の問、覚蔵が父に代って村政をあずかったという。明治七年一月、三一歳の関戸覚蔵は、推されて東京師範学校官費生と第V-16図して入学するが、在学一年余で病身となり、翌年九月退学して郷里にもどる。この関戸を待っていたのは、潮来村役人の役職であった。九年十月、潮来村戸長および茨城県第一二大区三小区の戸長に任命され、続いて十一年七月には同区の副区長となった。}の間覚蔵が心血を注いで努力したのは、潮来村の共有地二重谷の問題であった。二重谷の地は近世以来潮来村民の共有地として開拓に従事した村民およびその子孫にそれぞれ同等の権利を保証することで維持されてきた。ところが明治政府の地租改正事業により、}の村持慣行の継続が困難となる。土地所有者に地券を交付して所有権を保証し納税義務者を確定するという地租改正の原則に抵触するからである。関戸は、後に自由民権運動で公益民会に結集する藤岡彦之丞、磯山清兵衛らとともにその解決に努力、法律上個人所有のかたちをとるが実質上は共有として従来の慣行により土地を割与し租税は平均に負担するという「二重谷条例」を実現する。明治十年のことであった。翌年、麻生村に行方郡役所が設置されると、覚蔵は請われて郡書記となりさらに租税係長に就任する。明治十年代前半の公益民会を中心とする活動は前述の通りであるが、このような自由民権運動の高楊を背景として、関戸は明治十四年一月、行方郡から県会議員に当選する。}の年、茨城県会の通常会は予算案の土木費のうち治水費をめぐって県南西部選出議員(河川党)と県北東部選出議員(山岳党)が鋭く対立した。関戸は山岳党議員の中心となり指導的