ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
な役割をはたすが、かつて国会開設請願運動でともに戦った飯村丈三郎(河川党)らと対立、}のことが茨城県における自由民権運動衰退の大きな要因ともなった。明治十五年四月、}のような対立から議員を辞職した関戸は、同年五月の県議選で再び当選、以後十九年まで県会議員をつとめた。明治十九年(一八八六)十二月の県会議員辞職後、関戸は当時の茨城県知事安固定則の要請により、茨城県の第一部第二課長(勧業課長)に就任した。明治十九年五月、茨城県令(知事)となった安田は、明治二十四年四月退官するまでの約五年間に多方面にわたる施策を講じ、茨城県政に大きな足跡を残したが、その施策の実施にあたって有能な人材の登用をはかった。関戸のほかに、県北の自由民権派の領袖であった大津淳一郎を第二部第二課次長(兵事課次長)に、札幌農学校の第一回卒業生でかつて安田に随行してロンドンの万国発明品博覧会に出席した渡瀬寅次郎を茨城中学校長に、農芸化学士織田又太郎を農事巡回教師に任じている。明治二十三年(一八九O)七月、明治政府が先に約束した国会開設のため、第一回衆議院議員選挙が行われた。関戸はこの選挙に、県勧業課長を辞職し、東茨城、鹿島、行方の三郡を選挙区とする茨城県第一区から立候補した。しかし次のような結果で、力及ばず落選した。新しい時代の幕開け茨城県第一区(定数二)当選渡辺治九七八松延球九九同次点野上球平五七六加藤繁之助五二六第l章関戸覚蔵四七八関信之介四八中井敬之助八その他四七七この選挙で関戸は、士族新聞といわれた「茨城日報」から徹底的に攻撃された。当時この「茨城日報」は県からの援助で運用されていた御用新聞で、郡部選出の県会議員ゃ、自由民権派の議員を常に攻撃していた。この体験から関戸は、民意を反映できる新聞の必要性を痛感、明治二十四年七月、多くの人々の援助と自らの家産を投入して新しい企画の新聞「いはらき」を創刊した。この新聞の設立発起人には、関一戸のほか柴孫次郎、大久保不二、野村善八郎、野上球平、長塚源次郎、大津精三が名をつらね、関戸が初代社長に就任している。しかし、関戸が家産まで投入して創設した新聞社の経営はうまくいかず、創業時に用意した資金もたちまち底をついて経営難におちいり、一二号まで発刊して休刊した。万策つきた関戸は民権運動の同志であり、治水問題では政敵であった飯村丈三郎に窮状を訴えて、社長の座を委ねたのである。明治二十五年二月、関戸は第二回衆議院議員選挙に再び茨城県第一区から立候補して初当選、以後次のように三期連続して当選を果している。第二回臨時総選挙(明治二十五年二月十五日)茨城県第一区(定数二)当選関信之介七O同関戸覚蔵一三五三次点九六六松下直巳宮本五郎ー\1、、」\,,,,ノ一ノ高須真郷二六Oその他/\第三回総選挙(明治二十七年三月一日)515