ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代現近V茨城県第一区(定数二)当選関戸覚蔵一八二五同関信之介一六九七次点酒泉温忠一四七O大部費員五四その他第四回総選挙(明治二十七年九月一日)茨城県第一区(定数二)当選関戸覚蔵一六九六同関信之介一六二九次点野口平太郎一五六その他ム/\この間、関戸は立憲改進党の結成に参加したほか、中立系または無所属としての立場を貫いた。また明治二十八年には牛堀の大崎次郎太らと茨城・千葉両県にまたがる「東風」新聞を発刊、明治二十九年三月には516関戸覚蔵の墓〔潮来町浄国寺〕第七回帝国議会召集の際、精励の理由で賞勲局より銀盃を下賜された。しかし明治三十一年中に行われた二回の総選挙に落選、)れを機に政界を隠退して水戸信願寺町に居住した。五五歳であった。政界隠退後の関戸は、水戸で養鶏事業を営んだが成功せず、清貧のなかで著述に専念した。明治三十三年に『水戸城』、同三十六年に『東陸民権史』、同四十一年に『国産千種全書』などを著し、「二重谷沿革史」第V-17図「浪逆浦沿革史」などの草稿もある。また明治四十四年からは、文部省の維新史料編纂会の嘱託として明治維新関係資料の編纂にも従事した。著作として最も有名な『東陣民権史』は、「加波山事件」の参加者で、無期徒刑の判決を受けのち赦免された玉水嘉一が、加波山事件の全貌を世人に訴えるため資料を収集、資金を調達して、関戸に編纂を依頼したものである。大正五年(一九二ハ)五月九日、関戸は水戸信願寺町の自宅で七三歳の生涯を閉じた。いはらき新聞社葬が営まれ、水戸神応寺に葬られたが、のち遺族によって分骨され潮来町浄国寺にも墓がある。明治三十五年に発行された『茨城人物評伝』のなかで、服部鉄石は関戸の人物像を次のように紹介している。水戸市上の伍軒街頭最も噌雑のところ数弓の宅あり表に僑古堂と標し入て鶏口園の額あり一見其の隠者の居なるを憶しまずんばあらず主人五十六七清痩古高にして鶏数千を飼ひ陳篇古書其の傍に散乱す誰れか謂ふ五梓を養ふの陶朱公なりと而かも是れ却て老貧先生の関戸覚蔵君なり君は行方郡潮来町の人世々水戸藩に仕へ慶応年間佐幕党に属して間関流離し死に瀕するもの数回王制維新の特赦に逢ひ其の罪を免せられ明治七八年の間村吏郡書記等となりて治績あり国会開設の論海内を風蕨するに及んで君は県下の志士と其の議に参し四