ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

方に斡旋せり十三年県会議員に当選し常置委員となり治水山岳両党の紛擾あるに及んで君は其の議の行はれざるを以て職を辞し南北和解するに及んで就職故の如し十九年君茨城県属に任し勧業課長となり二十二年退官して実業に従事し水戸市に熔乾製造所を創設せり初期衆議院議員に競争せしも失敗し爾後解散ある毎に三たび月桂冠を戴くに至る其聞いはらき新聞を創刊して以て文運の発達を計り又東風新聞を潮来に起こせり君は香渚と号し頗る文学に長ず三十一年以来全く念を政治界に絶ち復鹿を中原に争はず垢衣蓬髪名教の楽地に悠遊し著述自ら楽み文傍ら養鶏を事とせり鴫呼君をして或るものL如く権謀術数を以て競争場裡に臨ましめば老貧と援も宣一一向の逐鹿を難しとせんや然るに君計此に出てずして独り閑雲野鶴を友とし市中の大隠となるもの即ち君の君たる所以か関戸覚蔵とともに、潮来出身の著名な民権家であった磯山清兵衛は、嘉永五年(一八五二)二月、磯山尚七の第五子として潮来五丁目に生まれた。名は徳隣、{子は弥五郎、後に柳塘と号した。幼くして句読を宮本茶村に受け、さらに鹿島の吉川松浦に学び、宮本千蔵について文武を習得した。「性沈黙寡言、人と新しい時代の幕開け'H第1章なり深沈、智慮周密、語落にして大志あり、人に交るに襟胸部然、常に城府を設けず、客あれば則ち酒を置き、快談終日倦色なく、諸友に敬愛」(新荘桜涯「磯山清兵衛君伝」)されたという。明治十二年(一八七九)、磯山は行方郡役所の設置とともに郡書記に登用されたが、}の頃から自由民権の説を主張し、前項で述べたように、潮来の公益民会を中心に「筑波山の会」でも活躍、「国会開設の勅許を上願するの書」ではその請願の総代人のひとりにもなっている。さらに明治十三年から十四年にかけては、関東地方の各民権政社を結集して組織された「関東同志会」の設立に尽力した。}の関東同志会は、各民権政社がそれぞれの地域で小政党を組織し、その上に全国的な一大政党を樹立しようという構想のもとに組織されたもので、明治十四年十月の全国的な一大政党H自由党結成の前提ともなった。明治十四年十月十九日から二十三日にかけて行われた自由党結成大会ここで植木枝盛、児島稔(以上高知)、小原鉄臣(島根)、安達又三郎、市橋保身(以上福井)らとはかり、明治十五年五月一に出席した磯山は、日を期して大阪で全国酒造業者大会(酒屋会議)を聞くことを取り決め、全国に徴文を発した。植木の起草によるこの機文によれば、政府は酒造業の自由な営業と発展を保証すべきであるにもかかわらず、過超の税を課し酒造業の前途を不安にしている。また重税を課せば酒価は高くなり人民を困窮させる。そこで酒税の軽減を請願し酒造業の自由の実現をはかろうというのである。」の撤文を配布したことに対して政府は不応為罪を適用し、磯山は数ヶ月の禁獄の刑に処せられた。」のころから磯山は、植木枝盛の影響もあって、「政府官吏圧政ヲ為ストキハ日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得、政府威力ヲ以テ檀恐暴虐ヲ逗フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抵抗スルコトヲ得、政府恋-一国憲ニ背キ檀-一人民ノ自由権利ヲ残害シ建国ノ旨趣ヲ妨グルトキハ日本人民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」(植木枝盛「日本国国憲案」)という人民の抵抗権、革命権を主張する自由党急進派H左派に属していく。517