ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代現近V明治十七年八月に磯山は、東京築地栄町に建てられた自由党青年寄宿518舎「有一館」の幹事となった。}の有一館は表面は青年の文武教育の場のちに加波山に蜂起する河野広鉢、鯉沼九八郎など、自由党中央も手に余る過激派の若い党員であった。であったが、}こに集る人々は、のように自由党左派の指導者となっていた磯山は、翌明治十八年におこっ左.T館市妙酋寺〕た、自由民権運動最後の激化事件H大阪事件の主役を演じることになる。大阪事件というのは明治十八年(一八八五)に、前年十月の自由党解散後、かつて自由党左派に属した人々が、朝鮮の独立運動支援と日本国内の自由民権運動を結合させようと計画した事件である。明治十六年から磯山清兵衛の慕〔右,潮来町石塔場十七年にかけて、自由党首脳の板垣退助、後藤象二郎らは、朝鮮独立党の金玉均らの要望によって、資金をフランスに仰ぎ、朝鮮の清国からの独立運動を支援しようと企てた。明治十七年十二月、金玉均らは日本政府の援助のもとにクーデターを行ったが失敗、日本公使館や居留民は清国・朝鮮両国軍隊の襲撃を受けた。甲申の変という。)の甲申の変は日本政府や軍部ばかりでなく一般民衆に至るまで排外主義の風潮をまきおこした。民権派もその例外ではなく、明治十八年五月、板垣らの計画に際してフランス公使との交渉にあたっていた自由党員小林樟雄は、自由第V-19図党左派の指導者大井憲太郎、磯山清兵衛らに呼びかけ、日本人だけで朝鮮改革の援助を行うことを企図した。彼らは朝鮮に渡って保守派の大官を暗殺し、独立派の政権を確立して清国から独立させ、民主的改革を行ってそれを日本国内の改革の糸口にしようとしたのである。磯山は渡鮮隊長として新井章吾ら社士二O余名とともに朝鮮に渡り、大官暗殺の行動を起こすことを決め、撤文を草して資金調達と同志の糾合をはかった。そして渡鮮隊は同年十月下旬長崎にむかつたが資金調達に失敗、そこで磯山は非常手段による資金強奪を壮士らに指示したがう