ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

出なければならない。地券交付後に売買、譲渡、代替り、質流れにより所有者が替った場合は、書替を願い出なければならない。地券交付申請のさいは、書替もふくめて、証印税を上納しなければならない(証印税は地券に記された金高を七段階に分け、の千分の五から千分の七五までである)。今後地券交付申請をせずに、土地を「密売買」した者からは、土地と代金とを没収する。地券に記す代価は、現在の適当の代価を申し出て記載すること。地券交付の手続きを旧茨城県についてみよう。村において、土地所有者一人ごとに、それぞれ一筆ごとに土地の地位により、田畑については、字、地番、反別、地価(および反当地価)を、また屋敷、山林については地価のみを取調ぺ、一村の総計まで書きあげるように雛形がつくられている。個人の所有地が一筆ごとでなく合筆で記載されているのは、明治五年九月三日付で旧茨城県が「合筆一紙を以渡方願出候欺又ハ一筆限り願出候とも当人勝手次第」と、合筆であっても一筆ごとに地券を請求しても認められた。地租改正の初期の段階でも、「小歩之分一紙宛相渡候テハ印税相嵩ミ可及難渋-一付」(茨城県布達明治七年第三十八号)と一OO新しい時代の幕開け歩までの小面積については合筆が認められている。}の時点では改正事業はまったくはかどっていなかったのであるが、壬申地券の発行と地租改正における地券の発行とが混同されているのである。合筆が明確に否定されるのは、改正事業が急展開する直前の明治九年三月で、「合筆之儀ハ被廃将来之地券ハ毎一筆相渡」(同前明治九年第九拾九号)といい、第1章将来発行されるであろう地券は、一筆ごとに出されると達している。してこの時点でもなお、地券発行にともなう証印税は生きていて、明治五年の税額表「金百円以下千分ノ五即十円ニ付五銭」の下に「地券一一記セシ金高三拾銭未満/券状一通ニ付/壱厘」と最低税額を加えている。一筆の地価金三十銭という土地は多くないであろうから、「印税相嵩ミ可及難渋」ことになったはずである。そ他方新治県においては、「田畑共幾筆も合筆致し券状壱通一一相記候儀依頼ニ差許候間右様之分ハ名寄帳ヲ以別冊-二筆限り帳相仕立」(「地券波方規則」第十二条)とある。旧茨城県とは異なり、制限なく合筆を認めている。そのさい名寄帳をもとに個人毎に一筆限帳を作成して提出しているが}れは重要である。壬申地券の交付にさいして、とくに注意をひくのは、土地所有者が地券を求める土地は、その反別を検地帳によって確定したことである。申告された土地が検地帳より増歩のさいは申告とおりとされ、減歩のさいは竿入れ(検地)による検査によって判定されるとした(「茨城県地券規則」第二十四条)。後年、茨城県でも地租改正事業が終了した明治十五年二月に、地租改正の最高責任者として事業の推進に当った参議兼大蔵卿松方正義が、太政大臣三条実美に提出した「地租改正報告書」の総説において、「検地ハ従来農民ノ嫌忌スル所ニシテ此挙アル毎ニ率ネ紛伝ヲ生ス」と述ぺている。検地は、農民が最も嫌うところであり、紛糾をみずに検地を終えたためしはなかった。松方の報告書は、さらに続く。「況ヤ維新以来年月尚ホ浅ク人民未タ浅ク人民未タ深ク政府ヲ信」じない状況を考慮して、「検地ニ着手スルハ得策一一アラス」と断言している。検地は必ず貢租の増徴を招くもので、絶大な権力を保持していた封建領主でさぇ、比較的小範囲といえる自己の領国においてすら、容易になし得るこそとではなかった。成立間もない明治政権が、しかも全国的規模で実施するなどは論外であった。521