ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

当然売買価格が設定されているはずであり、その価格を申告させるのは容易である。しかし、明治十六年における小作地率をみれば、全国平均三六パーセントに対し、茨城県では二八パーセントにとどまっていた。この数字をもって、明治五年段階を類推するならば、茨城県域の小作地率はきわめて低かったと見るべきであり、したがって、土地の売買価格の設定も困難であったと考えられる。地価設定にさいして、売買価格のみでなく、入札とか収穫量による地価算定の方法が導入されても、困難は克服されなかったようである。地券交付期限が差迫った明治五年九月二十七日付旧茨城県の伺がある。「地券売渡規則」第三条によれば、住人はいても無税地となっている下等の土地でも地価は一反につき一O円以上とするように定められているが、管内で現在売買されている土地の相場は、下の位付の田畑では七、八円から一円位までであり、)れを一O円以上に定めれば、地券取調に支障が生じるので、適当の地価にしてもよいかどうかというのである。中央当局の回答は、そのような下等の土地は地価を決定し難いのであるが、無税地にしておくいわれはないので一反につき一O円以上の地価を地券に記すように定めたのであり、この土地を他の有税地と比較できないはずはないと突き放しているが、結局は「篤ト勘弁」するよう頼ん新しい時代の幕開けでもいる。明治初年の地価を得ることはきわめてむずかしいのであるが、常陸国久慈郡小目村に残る明治六年八月「本田畠其外地価取調帳」(『茨城県農業史第一巻』)によって、旧茨城県の一端は知られる。右の史料によれば、旧茨城県の地価の低位性は、目を覆うほどであった。反当地価は下田三第l章円五O銭、下畠一円で、さきの旧茨城県の伺があげた数字と大体一致するこれを同時期の岐阜県の数字でみると、下回五1一七円、下畠一五ー三O円となっている。両者の較差は明らかである。同時期に行方郡浜村では、つぎのような史料がみられる(『地租改正関係農村史料集」)。上田地壱反歩代金拾両位下田地〆〆六両位上畠地11九両位下畠地11両位右田畑売買直段御尋被成候所全ク村方当時売買人勝手直段-一両貢米貢永自費之差別茂無之売買仕候価ニ付取調前書一一奉書上候以上明治六年三月右村副戸長貝塚伝左衛門関口庄衛門売手と買手が任意に決めた価格を書きあげたとはいうものの、浜村で戸長は小目村よりは、かなり高価で取引きされたとみられる。それにしても地価の低さは明らかである。作成年月は確定されないが、壬申「地券発行ノ趣旨ヲ窺フニ足ル」といわれる「地券ヲ発スルノ益」と題された建白書をみることができる(『明治前期財政経済史料集成第七巻』)。その一節に「今其版籍詳カナラサレハ何ヲ以テ天下ノ大計ヲ総括センヤ」という一文が読める。国家の存立にとって、版籍の正確な把握が必須であることが述べられている。明治二年に許された版籍奉還における版は土地であり、籍は人民である。すなわち土地と人民を天朝に戻すのが版籍奉還であった。維新政権は、壬申地券の交付によって土地を、壬申戸籍の編成によって人民を、支配することを意図したのである。版と籍とはいわば車の両輪であった。しかし地租によって政権の財政的基盤を確立するためには、長くて困難な改租事業を経なければならなかった。523