ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代壬申地券の交付が難渋するなかで、明治六年(現地租改正法の公布八七三)七月に「地租改正条例」ならびに「地租近改正規則」「地方官心得」など関係法令が公布さVれる。ここではこれらを総称して地租改正法と呼ぶことにする。地租改正法の交付により、壬申地券の交付は、不充分なまま中止される。有本正雄氏の調査によれば、旧茨城県では、明治六年九月に地券調査の中途で地租改正に引継がれたといわれる(有元正雄『地租改正と農民闘争』)。また新治県についていえば、さきの長文の引用にみられるように、明治六年九月時点でなお、数万町歩については、「成功期限申立兼候」という有様で、地券発行が完了したとは、考えにくい。当時、全国六O府県中地券発行を完了したのは、一九府県二島といわれるから、旧茨城、新治の両県がとくに遅れていたというわけではない。地租改正法は、課税基準を旧幕時代の収穫量に対し地価におくこと、税率を地価の三パーセントに固定し、作柄の豊凶により減免しないこと、そして旧来の貢租が物納であったのに対し、金納とすることなどを骨子にしていた。ついでにいえば、地租改正条例によると(第六章)、物品税の収税額が二OO万円を超えれば、地租は地価の一・八パーセントにまで減額されるはずであった。新政権の財政にとって地租の期待度の大きさをうかがわせるのであるが、}れは果されることはなく、茨城、三重で起こった大規模な農民一撲により、わずかに0・五パーセントだけ減額されたにすぎない。後述するように、地租改正においては、地価が決定的意味をもっていた。地価の調査こそは、事業の最大の難所であった。そればかりでなく、農民の最も忌み嫌った土地の丈量H検地が、地租改正法においては、明確に規定されていた。壬申地券の交付にさいしては、申告された土地の面積が検地帳より減歩の場合に限って丈量されたのに対し、改正法では524あらゆる土地を正確に丈量することが求められた。明治政府によるこの方針の変更は、壬申地券の交付の過程で、検地帳に記載された土地と現実の土地とが、あまりにかけ離れていたこその面積はいうまでもなく、とが明確になったためである。前項で引用した松方正義の報告書では、検地は確かに導入したものの、政府による検地の挙行は避け、土地丈量の実地作業は一切人民が行うこととし、政府、県の官員は、その結果の「精粗適否」を検査するに止めたといっている。丈量の結果が政府の思いどおりでなければ、再調査、再々調査もありえたはずである。改租事業の実務担当の官員が依拠すぺき「地方官心得」にも、「今般地租ノ改正ハ至大至重ノ事業タル固ヨリ詳細ヲ侠タス。其調査ヨ口、ンキヲ得サレハ従前ノ偏軽偏重ヲ平均スル能ハス」(第一章)と、実地調査をおろそかにしては、旧幕時代の不公平な課税をならすことはできないという。したがって調査は二段階に分け、「第一ハ人民ヨリ差出セル書上-一就キ其当否ヲ検シ、第一一ハ実地ニ臨ミ人民言フ所ノ実否ヲ検スル」(第四章)ように規定されている。検地は、慎重かつ巧妙に運ばれなければならなかった。地租改正において、最初に着手されるのが土地の丈量で地押丈量と地価算定あった。松方正義の報告書によれば、「地押ハ土地ノ重複若クハ脱落ナキヲ要スル為メ当初ニ之ヲ施行スルモノ」とされる。地押は、地詰ともいわれ、土地の位付け(等級)、石盛(課税率)は従前どおりとし、従前の検地の土地測量が適しているかどうその方法は、「先ツ人民ヲシテ小村ハ一村通シ番、大村ハ名字限リ一地一筆毎-一番号ヲ附シ、而後十字法文ハ三斜かを調査することであった。法ヲ以テ其歩積ヲ量リ畝杭ヲ建テ、字、番号、地目、反別、地主姓名等