ブックタイトル潮来町史

ページ
537/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている537ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

海テ之ヲ明記シ:::一村限図ヲ製シ、地引帳(検地の準備のために作成する帳簿のこと)ト共-一之ヲ管轄庁一一上進」させることである。「報告書」では、地押はまず土地に通し番号をつけることからはじめたとある。旧幕時代の検地帳には土地の所在地が記載されていた。そ0コ多くは現在の小字とみてよいが、それに代って一筆ごとに地番がつけられた。そればかりでなく、収穫高をもって課税基準とした旧幕時代では、決定的意味をもった上田あるいは中畠という耕地の位付けもなくなっている。茨城県では、「地順番号ハ田畑宅地トモ全村通シ番ヲ用ユト雛トモ村落ノ広大ナルモノハ便宜区分スルヲ許セリ」(『府県地租改正紀要上』)とあり、全国の方法にならっている。土地の丈量法については、「官庁ヨリ十字器ヲ用ユヘキヲ予示スト難トモ其地形-一応シ三斜法ヲ用ユルニ従事者ノ適宜-一任セ」たが、「十字器ヲ用ヒシモノ十ノ七八ニ居レリ」(同前)とあり、茨城県では、圧倒的に十字法を用いた丈量が採用されていた。十字法は屈曲のある地面を長方形に見立て、縦横を乗じて面積を求める原始的測量法である。三斜法iま一筆の土地をいくつかの三角形に分け、丈量求積する方法であった。久慈郡地租改正総代椎名徳胤が明治八年三月に誌した「地面丈量の手新しい時代の幕開け順」には、十字法による丈量が詳細に述べられている。四隅江細見竹ヲ立、間々江党天竹ヲ立、四方片先ツ其形容-一随ィ、面宛屈曲出歩入歩ヲ平均シ、然フシテ縦横ノ縄ヲ入真中十字ノ処別テ心ヲ用イ可申候(『茨城県史料近代政治社会編I』)屈曲の出歩や入歩を平均させるのもむずかしかったろうが、真中の十字のところを直角に交差させるなどは、専門的技能を要したとみてよい。第1章明治七年、信太郡茂呂村(美浦村)に対して出された触書は、「正副戸長が不馴れのために測量熟知のものを雇っておくのは、ょんどころないことであるが、}れら雇人は、一村の仕上りをまたず、他村にも雇われ、甚だしいものは数村を請負い、賃金を前借さえすると聞く。)れでは地押丈量の期限が守れないばかりでなく、村費もかさみ、人民が難渋するので、一村が終了するまでは他の村に着手しないよう約諾させるよう」触れている(『常陸国信太郡茂巴村御用留E』)。茨城県の地租改正事業の終熔を目前にした明治十一年七月二日の『茨城新報』に、後日自由民権運動家として名を成した潮来村の関戸覚蔵が一文を寄せている。明治八年十月中に彼は「雲遊霞宿ノ一書生」となって下総猿島地方に遊学していたという。そこに特使が行って潮来村副戸長を拝命したという。長老が支配していたであろう村役人層の中で、三四歳の書生の就く地位はこのあたりなのであろう。郷里に戻り、思ってもみなかった公務に従事することになったという。重要なのはこの直後の一社即である。其比ハ専ラ実地丈量ノ際ニテ同僚数名ト倶-一党天間縄ヲ携ヒ日々寒風ヲ侵シ田野ニ奔走シケルモ村民絶テ之ヲ善ト称セス或ハ目シテ十字法ノ施シ方ナリト云ヒ或ハ官吏ノ苛酷ナル何ソ小民困迫ノ情実ヲ顧ミサル杯ト種々ノ醜評日トシテ我輩ノ耳孔一一入ラサルハナシ地押丈量の実務に勤勉に携ったことがよく描かれている。丈量は明治八年十月ころに、潮来村近在では最盛期であった。党天竹と縄を持って寒さの中で丈量しでも、村民誰一人として労をねぎらう者がいない。丈量中に十字法と何度もいったためか、それを目撃した村民が彼らを十字法をする人達といった。また貧しい者には多少面積を少なくしてもいいのに、官更は厳重に測量し、まるで情がないではないかという者もいたし、酷評が耳に入って来ない日はなかったといっている。検地は縄入れともいわれ、文字どおり縄で土地を量ることであるが農民が嫌っている525