ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
茨城県においては、}れがさらに後れ、中央の地租改正事務局一五等出仕安藤貞四郎が明治十一年七月に草した「茨城県出張復命書」によれば、明治九年二月に出張したさいには、「全管挙テ丈量未済、局員検閲ノ場合ニ不至」(『明治初年地租改正基礎資料下巻』)という状態であったと回想している。その理由として、明治八年秋に新治、千葉両県での統廃合があり、調査方針に変更があったためと説明している。しかし、明治九年六月になって茨城県下妻支庁では、「丈量が終了して帳簿を進達する段階に至って、各村の手直しが多く不都合である」(『茨城県農業史第巻』)と達している。調査方針の変更で各村軒並み手直しというのはどうであろうか。右の復命書によれば、茨城県では、明治九年四月、まず筑波郡の実地検査を皮切りに、九月に地押丈量は完了したとされる。地租改正法公布以来三年以上の星霜を経て、やっと、事業の第一段階が終了したことになる。土地丈量の後に着手されるのが、地価の算定である。さきにも引いたが「地方官心得書」でも、「調査ノ難キ地価ヲ定ムルヲ第一難事」としている。土地丈量ばかりか、地価の決定も、改租事業にとっては難所であった。地価の一O O分の三を地租とする地租改正においては、当然な新しい時代の幕開けがら、地価の高低が地租の多寡を導くことになるからである。当初、地租改正法において、土地の売買価格を基準として、小作料を資本に還元させた額を地価としていた。しかし改租事業の過程において、収穫実益すなわち全収益を基礎として算出した額を地価とするように変更し、最終的に、地価は収穫量と米価によって決定されることになった。第1章改租に用いられた米価は、明治三年から七年までの五か年間の平均相場によることとされた。しかし改租事業が進行中の明治九年には、|日貢租の分を米価の代金をもって、地租を納入する(石代納)ことになっていfここの際の米価は、五か年平均相場ではなくて、前年相場をもって納入することを強いられたため、}の年真壁郡、那珂郡で大規模な農民撲が起っている。明治七年に米価は急騰し、八年には全国的にいえば、急反落していたので、農民は大きな負担を強いられたのである。旧茨城県では、早くも明治七年に、五か年平均相場の調査地を一五町村選定している。}れらは、幕末期以来地方的小市場圏を形成していて、「常-一米麦ノ売買ヲ為ス」場所であった。行方郡では米価調査地をもたなかった。水戸上市、真壁町、土浦町など、県央部に散在した一か所の時価平均がとられ、茨城郡をはじめ信太、河内、鹿島など七郡とともに適用された。石当り米価は四円五七銭、麦価は一円四四銭であった。」の価格は、県全体の平均価格をやや上回る(『府県地租改正紀要上』)。米価が決定されれば、即時的に地価が決定されるほど、事情は単純ではない。再三引く「地方官心得」では、地価の検査例を示している。例とはいっても、最終的に地価検査はこの例に近づけられていくのである。検査例第一則は自作地について規定したものである。収穫代金から種子代、肥料代(収穫代金の一五パーセント)、村入費(地租の一パーセント)、地租(地価の三パーセント)を引いて利率(六パーセント、例では仮に六分としている)で割った商を地価と定めている。第二則は小作地にかかる分である。収穫代金から小作人取分(収穫代金の三二パーセント)、第一則と同率の村入費、地租を引いて利率(四パ1セント)で割った商が地価となる。ここでは種子代、肥料代は認められていない。両者に共通する村入費は、地租改正事業に従事した村役人らの日当、筆墨代、簿冊作成用紙代など、改租事業にかかわるもろもろの費用で民費と呼ばれた。527