ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

遺憾ナク改租ノ均一ナルニ甘受シ右の過程を潮来町域においてたどるのは、乏しい史料では無理である。しかし、さきに引いた関戸覚蔵の文からうかがうことができる。明治八年十月から副戸長として地押丈量に奔走し、「十字法ノ施シ方」と悪口をたたかれたことはさきにみたとおりである。以後をつぎのようにいう。九年六月ニ至テ僅-一地盤検査済ノ申渡シヲ受ケ引続キ模範組合ヲ設ケ地位等級調へ方ニ取掛レリ然ルニ人民ノ苦情紛々トシテ益々甚シク故-一再三情実ヲ建言スト難トモ官之ヲ採用セス尚ホ一層精撰可致旨ヲ達セラル我輩奉職ノ日浅ク政府ノ旨意如何-一アルカ固ヨリ確認シ能ハサルヲ以テ亦少ク疑倶ノ心ナキニ非ルナリ該事-一際シ又戸長ノ命ヲ拝セリ於是我輩情ラ思惟スルニ区戸長ノ職分タル官民ノ中間ニ立チ上ハ以テ政府ノ法令ヲ道守シ下ハ以テ人民ノ権理ヲ伸張スル一一在リ仮令ヒ官旨ニモセヨ人民之ニ…堪ユ可ラサルノ処分アラハ遮テ抗論詳議セスンハアルへカラス又人民力強テ自憧ノ見ヲ主張スルニ及テハ厚ク読諭ノ力ヲ尽サ、ル可ラサルナリ若夫レ此ノ如キ困難ニ臨ミタルトキハ至重ナル身命ヲ拠棄スルモ己ヲ得サレトモ内心実ハ速ニ職ヲ辞シ再ヒ四方ヲ漫遊セントスルモ其志ヲ遂クルコト能ハス荏再消光今日ニ及へリ而シテ地位等級既一一精撰ニ帰シ収穫地価ハ亦新しい時代の幕開け確定ノ達シヲ得テ旧税ニ比較スレハ幾分ノ減租トナリ人民ノ頓-一歓喜ノ眉ヲ開キ煩声頗ル閤巷-一満ツ民権運動家の卵は、改租事業の一局面では政府の本意を量りかねたり、政府の強圧と人民の権利の伸張とのはざまで苦悩したことが書きつけられている。改租事業の過程で紛々と苦情を述べた人民も、新税が旧税よ第1章りもやや減租となったため、歓喜の眉を聞いたという。明治十一年三月十九日、茨城県大書記官本田親英と第三課長心得樺山資雄ほか改租担当員が麻生村へ出張した。}こに行方全郡の区戸長以下地主総代まで招集し、各村の耕地の米麦収穫表および宅地の地価表が示された。その結果、人民の見込みと格段の差はなく、「一統大一一安堵ノ思ヒヲ為シ」たという。関戸自身も「区戸長ノ職一一居ルヲ以テ本日盛会ノ末席一一培シ均一至当ナル改租事業ノ整頓ヲ見ルニ及ヒ実一一手ノ舞足ノ踏所ヲ覚へサリキ」と喜んでいた。さきに引いた「伺」のとおり「人民等脚不平ナキヲ断言」したのである。茨城県における地租改正事業は、『府県地租改正紀地租改正の結果要』によれば、明治一四年六月に終了したという。地租改正法が出て間もなく、表向き改租事業がはじまるわけで、事業には七年一0か月もかけられたのである。ただ耕宅地については、明治十一年の「伺」にみられるとおり、明治十一年には完了していたとみるべきである。ご}で明らかになった耕地における地租改正の成果をみておこう。常陸国一一郡、下総国六郡、二O六八の村の改正水田反別七万八三九一町余、旧反別に比較すると二万一一五一町余の増、つまり地押丈量の過程で三七パーセントもの増歩になったのである。しかしながら税額に旧租に比して二七万円も減額になる。他方畑については、宅地も含め改正反別一O万五九六一町余、旧反別よついては、九一万九六三七円余、り一万二八五七町の増歩、税額で二O万円の増となった。したがって耕宅地全体では七万円の減額となる。行方郡民が「歓喜の眉を聞いた」というのは右の結果にも表れている。この結果について、中央で茨城県の改租調査を担当した前出の安藤貞四郎らは、さきの復命書において、「概シテ田方-一減シ畑方-一増スト難トモ、旧税ノ寛苛軽重ヲ矯正シ、公平画一ノ租額ニ帰スル上ハ其増減スル529