ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代珊カ疑ヒヲ容レス」と自讃している。維新政府が旧幕時代の貢租をその現まま継承するためには、租額の増減は望むところではない。しかしこの近増減は、旧幕の軽重ばらばらの課税を正し公平画一の税にしたために生Vじたものであるという。そうではあっても、旧税に比較して新税が減額となったのは、全国的にみて稀有の事例に属した。『府県地租改正紀要』は「是主トシテ水戸藩領ノ重税ナルニ因由ス」とその理由を説明している。そのうえ「特-一水戸領ノミ往時ヨリ:::他ニ比シテ殊-一重租ナルヲ覚フ」ともいう。同じ事情は、栃木県でもみられた。岡県内各地の旧幕時代以来の貢租の軽重を細かくみていくと、「日光神領ハ特一一寛ヲ覚へ、水戸支封ニ係ル:::部ハ梢々苛ナル」とある。さらに茨城県において「封域ノ大ナルハ水戸領ニシテ」といい、水戸藩の重税が県としての減租を導いたのは確実である。行方郡内で一村平均の収穫高および地価の最高をみると、水田では於下村(麻生町)で、水田面積九七町余、収穫金額一二七九円余、地価は総額四万九七O八円余、反当地価は五二円近くなる。最低は大洲村で、水田面積八九町余、収穫金額五九四円余、反当収量七二銭九厘は於下村の五五パーセントにとどまる。以下地価総額二万三一O五円余、反当地価二八円となっている。自然災害を受けるかどうかの差がこの数字に表われているとみてもよいのではなかろうか。他方畑については、開差はさらに拡大する。最高の吉川村(北浦村)の畑面積一七町余、収穫金額は水田より低く一九二円余り、地価総額もずっと低く二三五七円余、反当地価一四円である。最低の行戸村(北浦村)では畑面積は一二町余、収穫金額一O八円余、反当収量五一銭三厘は吉川村(一円一一銭九厘)の四六パーセントにとどまる。さらに郡内において改正地租が最も増租となったのは行戸村で、旧反別四五町九反八畝二一歩、改正反別六七町六反一九歩、二一町六反一畝530二八歩も増加している。旧地租二六O円五三銭七厘に対し、改正地租は一・七倍の四五一円一O銭九厘、一九O円余の増租である。改正地租が最も低くなったのが橋門村(麻生町)で旧反別二O町二反五畝一二歩、改正反別二六町九反四畝二六歩、差引増六町六反九畝一四歩となっている。しかし地租についてみれば、旧地租三九八円四三銭一厘に対し新地租は二六三円七七銭一厘、差引誠二二四円六六銭となっている。ほぽ三分の一が減租となった。行戸村が旧幕時代に旗本新庄鋼五郎支配地であり、明治四年の村高三八八石三斗八升八合であるのに対し、橋門村は旧麻生藩領分で、村高三O四石五斗八升四合、反別ほどの聞きはみられない。旗本領と藩領という旧幕時代の支配の差が表れたのであろ省フか。ところで、水郷を象徴するものの一つに江聞がある。地元では「えんま」と呼ぶようであるが、端的にいえば水路である。江聞は舟を操って耕地H水田と往復するばかりでなく、生活に密着した通路でもあった。広汎に江間の見られる大洲村において、明治十八年の地籍調査が残されている(大洲区有文書)。}の史料には、一八の小名の総計が記されている。官有地道路反別六反九畝一五歩七合六勺蒲生地一町五反一四歩学校敷地四畝民有地一二O町八反二畝一八歩九合四勺田八九町四畝二歩内七町四反八畝一歩江間