ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代東部は北浦あるいは鰐川、西部は北利根、南部は現浪逆浦と三方が水に固まれた潮来地方では地租改正と二重谷lま治〉近にみられない生産や生活の形態を生み出してきた。V前項でみた江間も、水郷に独特の交通手段であった。)の特異な地形が、近世において、大規模な新田開発をもたらしたのである。流水が運ぶ土砂が堆積された広大な湿地帯は、水田造成に適していたのであるが、の分だけ水害に襲われ、耕作民にとっては苦難を強いられたはずである。潮来地方の三大新田開発、大洲新田、二重谷新田、徳島新田は、いずれも一七世紀中、後期に開発されている。}のうち二重谷新田は、屋留川(北利根川の支流で、百間川ともいわれる)の南部に形成された新洲であった。この新洲は正保二年(一六四五)から延宝二年(一六七三)までの三O年の聞に二重谷村と名づけられたといわれる(植田敏雄「水戸藩潮来地方の新田開発」、以下断りのないかぎり同論文によった)。そして明治維新後、旧新治県管轄の時期に、二重谷村を廃止し、潮来村に合併された(明治十年「二重谷条例」第十九条)。宅地が造成されなかったためかどうか、二重谷村は、無民戸村と呼ばれていた。正保二年に開発が許可されてから新聞がくり返され、幕末の「天保郷帳」には村高五四二石二斗五升五合と記される大場になるまで、一八七年の聞に宅地は一畝も作られたことはなく、潮来村農民が出作りをしていたのである。近世における新田開発については、本節の課題ではない。しかしこのように長期間にわたって、村民共同の耕地が維持されてきたのは、共同体の強い規制が働いたためとみなければならない。開発の当初から潮来村農民は、「八人頭」と呼ばれる村役人を中心として「二重谷村提」を定めて、土地を全村民の共有とし彼らだけで耕作権を平等に所有しつづけてきた。村提が初めて成文化されたのが宝暦二年(一七五二)で、以後安永田年(一七七五)、慶応三年(一八六七)の二度に532わたり加除されている。それにもかかわらず、一貫して変更されることがなかったといわれる基本点七項が前掲植田論文ではつぎのように要約されている。二重谷村耕地の配分を受ける権利を有するものは潮来村民に限そる耕地の配分は地位、身分等に関係なく、平等で、二戸に一区割不公平を無くするため一二年ごとにくじ引により土地の割換えをする四三か年の期限内で耕作権の売買、譲渡は認めるが、その相手は潮来村民に限る五分家を取立てる場合は田取権を認め、男子の分家は一区割、女子の分家は半区割とする-'-/\田取人が離村して一二ヶ年間帰村しなければ土地は村預りとし、帰村後改めて割渡す七年貢を皆納しない者も同様である右にみられるように、村提は、徹底的に村落共同体の利益を優先する。したがって他村の者は排除される。二重谷村で耕作権の配分に与ることのできる者は、共同体の構成員である潮来村民に限られ、耕作権を売渡しあるいは譲渡する相手も潮来村民でなければならないとして、共同体成員以外の耕作を排除している。そして共同体成員には平等の原理が貰徹する。右の要約の第二項がそれである。しかしご戸に一区割(その面積は時代により異なるといわれるが)であり、配分を受けられるのは、個人ではなく家である。したがって家としての与件が整っていれば回取権、すなわち耕地の配分を受ける権利が認められる。女子の分家に対し