ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
て制約が加えられている。右例によれば男は女房を、女房は夫を引取らなければ、別家しただけでは田取権は与えられないと宝暦の村提はいつている。提は明確にいってないが、「身上相定め」「身上相究め」「見届の上」などが随所にみられるところからみて、鴛の身上を吟味するのに十二年の時聞が必要とみられたのかもしれない。また田取人の権利は厚く保護されていて、出稼ぎで離村しても、耕地は村預りとして戻るまで凍結されるのである。しかし出奔、「夜船漕ぎ」とは夜逃げのことであろうか、これらは共同体の保護の坪外であり、田取権は引上げられ、再度帰村しでも末代まで田取権は渡されないともいう。ところで、公平の原則は、右の第三項にもみられるところで、三年ごとに箪によって耕地の割換えをしているという。割換えは、三年間の収穫が半ば決定されるのであるから、当事者にとっては重要であり、真剣にならざるを得ない。関戸覚蔵の筆になるといわれる『潮来町沿革誌』ば、「二重谷大鑑」という割換えの模様を伝えている。町内の関戸忠男氏が平成元年四月一日に成した冊子本から引用する。三ヶ年目の初春より着手し、新規割渡しをなすべきもの、取り上げの処分をなすべきもの、村預かりとなすべきもの等の人員を調査し田取人名簿を作成し、尚諸般の準備を整いたる後、庄屋宅に於て、新しい時代の幕開け各丁総代抽箪を行う、其の箪数は一丁一本にして、庄屋これを製す、往古は南割りを一番とし、二番三番と順推して場所を定む、一番は比較的高地にて水害の虞少なく、Eつ家より遠からざるを以て全町民挙げて、一二番筆を熱望す、〈明治十年以降は各小字に等級を付し、其の回数を田取人に案分する〉或るいは鎮守に日参し、或るい第L章は笠間の稲荷神社、成田の不動尊と思い思いに参拝し、神仏の冥助を祈願するなど抽箪十数日以前より村内活気を以て充たさるさて当日となれば、各丁民集会を催して祝宴を聞き、総代〈抽範人〉の供応頗る態態の後、多人数送りて、庄屋宅に至る、総て総代の出揃ふを待て抽識を施行す、一二番の畿を引きたる総代は、何丁目何番と高声に呼ぶ、}れを聞くと同時に其の丁民は潮の如く総代を宙に捧げ、歓声を上げつつ其の丁に帰り祝宴徹宵す、他の劣等の範に当りたる丁民は不平の面色にて漸次退散し、総代共は情然独歩して帰る、其の翌日小識と称し、各丁毎に田取人の員数に応じて製し、以て銘々の持分を定むるを例とせり。右の引用によれば、筆は大鑑と小載があり、各丁の総代が引くの大鑑一丁につき一本である。明治十年の村提では、十丁を読むことがでできる。したがって、総代一O名、大載は一O本要ることになる。各丁の田取人は、西壱丁目八九人、上壱丁目八二人、下壱丁目九四人、弐丁目六三人、三丁目五三人、四丁目九三人、五丁目五八人、六丁目四二人、七丁目八五人、八丁目五四人、合計七一四人になる。小範は「二重谷大議」の翌日に引く。丁毎に田取人の数だけ鑑をつくり、各人の耕地が決定される。しかし、地味豊鏡とまではいかなくとも、距離が近く、水害の恐れのない土地は一番鑑あるいは二番畿であり、大鑑の結果で明らかになる。一番箪あるいは二番載を引き当てた総代の右の引用により、得意と、悪い識に当った総代の失意とが描いたように見えてくるであろBqノ。右のように強力な共同体規制のもとで運営された無民戸村も、明治維新後は、維持が困難になったといわれる。『潮来町沿革史』は、「維新後、文物制度一変し、海外外国と交通益々頻繁を加え、国民生存競争の度著しく激烈を来し、二重谷如き貧富平均の習慣法は、到底支持の困難を感するに至」ったという。著しい生存競争が、共同体の平等の原理を駆逐533