ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代したということであろう。現しかし、実際にそれだけの理由で村持ちの耕地の維持が困難になると近は考えにくい。明治八年当初から十年にかけて、二重谷の運営法は激変Vする。すなわち明治九年二月に二重谷の村持名義は廃止され、明治十年三月には古例を劃酌したとはいうものの、二OO年近く生きつづけた村提を廃して「二重谷条例」を定めている。植田論文が「地券交付との関連」といわれるように、}の時期は潮来地方では地押丈量のさ中であったことはさきに述べたとおりである。したがって地租改正当局から二重谷の村持名義を個人名義にするよう強い指導があったはずである。おそらくは二重谷の存続について奔走したに相違ない。の時に関戸覚蔵も、さきに引いた関戸の感想の中の一文、「我輩奉職ノ日浅ク政府ノ旨意如何ニアルカ固ヨリ確認シ能ハサル」は、あるいはこのさいの挫折感を思い起したのかもしれない。「是に於て、人民総代、地主総代等と議し、地引帳及び名寄帳の面には、一筆毎に田取人の氏名を付する事と成し」(『潮来町沿革史』)村提は全面改正となる。耕地の共同体所有の原則が崩れでは、二重谷は成り立たないのである。二重谷の耕地に地券を発する件については、相互に集合協議を尽して、明治九年二月二十七日個人所有の地券状を受け取ることに決した。そうはいっても、と関戸の草したといわれる「二重谷条例」の前文はいう。二重谷の起源に遡るときは、本是れ浪逆浦の中央に上流より押寄来れる揖泥の自然に停滞凝衆して洲体となりたりしを、正保二年初めて永銭五百文を旧幕府に上納し、爾来我々祖先が倶に/\心を合せ、力を唱し、数百年の光陰を積て漸々に開拓したるものにし4て、素より貧富大小の差別なく、皆一般に勤労を均ふしたりき、是を以て旧来の村法はご戸必ず壱割を授与し、三箇年毎に土地を交換して、決して永久の売買を許さざるものは、即ち第一には最初開拓の本旨を534失はず、第二には貧民を保護して富家の併呑を防がんが為めの良法ならずして何ぞ(新荘桜涯「潮来町大耕地二重谷について」より引用)。したがって、明治十年三月十五日に定められた「二重谷条例」は、「後来永続の方法を定むる」とし、第一条より五条までを、地券の取扱いについて定めている。第条二重谷は、元来村内共有地にして、是の地所は某ノ所持と定まれる次第ニ無之、従前村持の名義を以て進退致し来り候所、昨年二月衆評ノ上、村持を廃し地引帳へ田取人の姓名を記載したりと離も、素より地引帳の面を以て其の土地を進退する筋には決して無之候問、此段各々厚く相心得柳かも私欲等為に、我々七百拾四名に関する安全を破らざること第一義務とすぺし。第条二重谷地券状は御下げ渡しに相成候とも、銘々にて決して之を所持すべからず。第条一町限り一纏めに之を入れ、右地券状は、堅なる箱を製し、蛇度封印の上地主一同の見込を以て、人民惣代か或は身元髄かなる者を撰んで預け置くべきものとす。第四条地券状預り人は、其町並びに村吏宛の預証書弐通を差出し置くぺし。但し預り中は、大切に仕舞置くは勿論に候得共、万一心得違ひ内々質入抵当等に差出し候儀も有之候はえ右取引金額弐拾倍の罰金を課しEつ村内の交際を絶つぺし。預り中火水盗難に擢り候節は、篤と調査の上、実際紛れなき儀無之に於ては預り人の罪を聞はず、更に書換の義を官へ願出づぺし。第五条毎年七月虫干しの節、村吏並に田取人一同立会ひ預り人へ