ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
預け置きたる券状を相改むぺし右のように、地券は今や共同体の象徴になっている。地券の券面に記載された名義人を以て所有者とはしないとし、地券は町ごとに一括して堅固な箱に入れて管理される。管理人はもちろん地券を大切に保管しなければならず、仮にそれを抵当、質入れにした場合は地価の二O倍を取立てて村八分にするという厳しい規定もみられる。二重谷の運営について、「条例」は「村提」と大きく変わってはいなぃ。大鑑も三か年に一度行なわれる。まさに「古例の通り」なのである。しかし間もなく「後来永続の方法」であるはずの条例に綻びが生ずる。「条例」の第十条はつぎのようにいう。先年は割換の年毎に、新規田取人多きときは本田へ割込み相渡し来り候所、次第に田面狭小に成行き、結極一統友潰れの姿に立至り候に付、向後は揖り田多少の都合に依り、適宜の渡し方を為すぺし。但し適宜の渡し方とは、仮令ば揚り田弐拾割にして、新取人弐拾五割なる時は、五割の不足を生ずるに付、弐拾五人に抽筆致させ、ハヅレの者をば、参年後の割換に相渡す等の類を云ふ。さきに家としての与件が整っていれば田取権が認められたことを述べた。維新以後、新規に分家を取立てた者が急増しているのである。右の新しい時代の幕開け引用にみられるとおり、「条例」成立の時点で割当てられる耕地は狭小となり、全員共倒れの状況になっていた。田取人の増加状況を『二重谷沿革史』は次のように数字をあげている。文政元年田取人員三百六十七人天保弐年p、=四百十九人第l章弘化三年四百三十六人戸、」工ー嘉永六年ノ\ーL四百八十五人安政元年p、ーL五百二十八人万延元年片、=五百七十弐人元治元年p、ーL五百九十八人慶応三年p、ーL六百弐人明治三年戸、‘=六百三十一人明治拾年y、ーL七百十四人明治十九年p、ーL七百四十三人明治廿二年七百七十三人p、=右の数字でみるように、幕末以降田取人の数は急上昇する。規約を最大限に利用して、共同体成員として保障された利益を享受することが、田取人たちの暗黙の了解事項であったのであろう。それを規制する力は、八人衆と呼ばれた共同体の上層部に、もはや残されてはいなかった。『潮来町沿革誌』のいうところでは、以前は「他所出稼ぎ人の二重谷をば村預かりとして取上げ、}れを新規の分家に割渡し、出入り差引き殆ど同数」であったが、明治以降には「出稼ぎ人共、割替えの年毎に、時必ず帰住して、二重谷を引揚げんと欲するも容易に承服せず」という。共同体への帰属意識も薄れてきたのであろう。したがって、「限りある団地を以て、限り無き要求に応ぜざるを得ざる結果」は、収穫量における減少として発現する。「天保前後一割〈区画〉より玄米約二O俵(一俵四斗入)を優に取り入れたりしを、明治九年頃は平均一六俵内外に減じ、尚更に益々減縮の傾向」になっては、二重谷の維持について、百様百説が出てくる。有力なのは、分割による個人所有、村持名義へ戻す、)の三説が村内田取人限定、の三説であった。に入り乱れ、「明治十二年以降互いにこれを主張し、甲論、乙駁停止するところを識らず」という深刻な事態となった。535