ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

は、二重谷の名称を二重谷組とすると改め、さらに新規取立てに制限を凡又ナこま:引回'ef--刀ほとんど「条例」と変るところがない。いわば第三説に近い解決法を狙ったものである。もちろん崩壊に瀕した共同体を再生させるどころか、崩壊を早めたのである。例えば第八条である。)こでは、一切の売買、質入れは禁止されていたが、敷金と称し、二O円から五O円を貸付け、収益を全て取りあげる方法が横行し、収益権を失った者は全体の半数にもなったともいわれる。そればかりでなく、地租金滞納の場合も、差押さえ、競売の処分にはできず、水防、堤防の保護も充分にはなされなくなった。共同体の解散は時間の問題となった。明治三十四年一月に二重谷の個人分割は決定された。土地価格一四万九八三四円四二銭、配当を受けた者九二四名である。開発をはじめた時から二五O年余が経過していた。その一五年後の二重谷の状況を『潮来町沿革史』はつぎのように述べている。分割以来誌に一五年、鰐に配与せられし土地を所有し居る者、既に三分の一に減少せり、即ち是れ負債或るいは災厄の為め亡失し、或るいは他所移住の資本として売却せる者等の多数なるに起因す、然れども残存の精農者は皆争うて土質の改良に勤め、堀敷きを埋め、小区画の畑地等を撤退し、区画整然たる良田と化し、年々壱千俵余新しい時代の幕開けの増収を得、従って耕地も現在農民之れを耕作して余りある状況なるを以て、小作人共小作米の低落に満足する有様にて、農家の利潤旧に比して、豊富の実を示しつLあり、)れを要するに、二重谷は祖先が苦辛経営、数百年の歴史を有する団体にて、子々孫々其遺徳を享くる唯一の機関なりしも、今回之れを廃滅せしめたるは遺憾の第l章極めと雛も、畢寛時運時勢の然らしむる所是非なき次第にして、避けんと欲するも能はざるなり、唯た之が為め耕地の面目を一新し、作物の増収を致したるは、亦功罪相償うと云うぺし明治六年(一八七三)に延方村に小規模な農民一撲が延方の農民一捜起っている。乏しい史料によればこの年夏の長雨で利根川が洪水を起こし、濁水が逆流して延方村の水田四OO町が冠水したといわれる。延方村は、浪逆浦、鰐川、北浦に沿った低湿地に聞けた大村で、明治四年古高を合わせた村高は、三七三七石七斗二升四合とある。農民は検見および年貢全免を県に求めるよう戸長に進言した。戸長は検見の申請は労多く、得る所は少ないとして消極的であった。ここで今泉覚次郎が登場する。今泉は鹿島郡大同村(大野村)の出身で、今泉家の養嗣子になったのである。一六歳にして江戸昌平聾に学んだといわれる。昭和三十年に延方村公民館の刊行した「郷土考」ヂ』ふ・6、一撲の経過を次のように記している。氏(今泉覚次郎)之れを嘆じ村民と相謀り免租の運動を起し凶荒の状を具陳し県庁に哀訴嘆願した。然し此の年は地租改正の時であり、各地にも此の種の農民運動の勃発しあるを以て却って之れを騒擾罪に聞はれ、訴願は却下となり且つ百打ちの答刑を受くるに至り遂に此の運動は不首尾の結果となった。然し氏もとより不撰不屈の精神止む事なく刑後も幾度びとなく上書して県政の非を弾劾した。其の結果翌年四月には免税の通知あり、一村ここに漸く愁眉を聞き安んじて生業に就く事を得た。右のように一撲は地租改正に反対するものではなく、水損の水田の年貢免除を求めたものである。新治県参事中山信安が大蔵卿大隈重信に提出した明治六年十一月二十八日付の始末書の一節に「覚次郎等巨魁一一而、出県以前多人数村内寺院に屯集鐘鼓ヲ鳴シ強而出願可致旨小民共ヲ煽動いたし、頗ル粗暴ノ挙動ニ相聞、接近村々江も波及可致景況一一付逮捕」537