ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第五節士族授産と開墾事業明治二年(一八六九)の版籍奉還は、藩主の土地と人民を封建的家臣団の解体朝廷に戻すということであった。新しく成立した明治政府は、その後、廃藩置県、地租改正などによって、近代的国家への歩みをはじめるのである。しかし、成立聞もない維新政府にとって旧藩の抱えていた家臣団に対する対策に苦慮しなければならなかった。禄を失った士族が「党ヲ立テ、派ヲ分チ、動モスレパ相凌蝶スル習つまり党派を組み殺し合いをしていたが、近頃ではその痕跡も見ヒンクくるしほとんどえず、「貧婁ニ困ミ、自家ノ生計ヲ工夫スルノ外殆他意無シ」という俗}とで、士族は貧困のどん底にあえいでいた。右は、明治九年に明治天皇の東北巡幸にさいし、茨城県参事本田親英による奉答文の一節である。いうまでもなく、右のいう党派の凌撲は、天下の趨勢が定まった維新後まで、藩内で血を流す派閥抗争をくり返していた水戸藩士族についていっているのである。新しい時代の幕開け第一節でみたように廃藩置県にはじまり現在の茨城県が成立する明治いくどか府県の廃合をみるのであるが、その度に維新政府の八年まで、中央集権化は進んだ。そして中央から派遣された絶対主義官僚が地方長官として君臨したのである。廃藩置県後間もない明治五年に旧大村藩士大蔵大丞渡辺清が県令心得として水戸に着任した。水戸藩内の党争の気風を排除するためというが、渡辺は東京鎮台から二個小隊を率いて来た。第l章水戸藩士族による水戸城焼打事件が起ったのは着任の五日後であった。茨城県における旧藩は大小一七藩を数えるが、その士族戸数は、明治十三年末現在次のようである(『茨城県農業史第一巻』)。旧水戸藩士族戸数三五四四旧笠間藩六四四旧下館藩二四五旧下妻藩九旧宍戸藩五九旧松岡藩一五八旧川越藩O旧土浦藩/\九九旧松川藩O旧石岡藩一九五旧竜ヶ崎藩五旧麻生藩九八旧牛久藩五旧志筑藩ムハムハ旧茂木藩四六旧古河藩O右の数字に「他府県ヨリ当県へ貫属替」した分四九戸を加え、県内の士族総計は七OOO戸とされる。ちなみにここでいう「貫属替」とは、本県に戸籍を移した者である。ほかに一代士族四七戸を数える。また旧水戸藩士族戸数には、二二O戸の郷土がふくまれる。これらのうちの多くは武士とはいえ農村における豪農、富農であり、藩に対する多額の献金によって武士身分に取り立てられた者で、藩の解体によって即生活が困窮するものではなかったとみられる。539