ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

る土地を低価格で払い下げることも盛られていた。)の令が出てから、士族の出願者は続出し、家禄税を引いた華士族禄高のほぼ二六パlセントが減少したといわれる。しかし禄を買取る資金が不足し、明治八年七月には奉還制度は廃止されている。しかし、安上りの秩禄処分法は確実に準備されていた。明治七年十二月九日の家禄、賞典禄の金禄への改正である。家禄、賞典禄は従来米で支給される建前になっていた。前節にみたように、当時米価は上昇していたので、禄を現石で支給すれば、財政赤字は必歪であった。そして明治九年八月五日に公布された「金禄公債証書発行条例」により、領主階級の解体が完成する。条例は、禄の種類、禄高により、その五か年以上一四か年分に相当する額面の公債を与えることにより、すぺての禄は廃止された。公債についていえば、元金は五年据置、六年目から抽範によって償還を開始し、三O年で元利ともに償還を完了することになっていた。公債の利率も禄の種類と禄高によって異なり、五分から一割まで四種があり、毎年二回支払われた。華士族はいわば退職金を公債で支払われたようなものである。金禄公債の発行総額は一億七三八六万円、償却当初、政府歳出中四五パーセント、明治二O年でも一三パーセントにもなっている。当時の納新しい時代の幕開け税者といえば、大部分が農民であったから、彼らに重い負担を強いたことになる。封建領主階級の解体はまさに農民の負担によってなしとげられたのである。金禄公債は、禄高の少ないものが、多いものより有利になるようになっていたといわれる(以下、丹羽邦男「地租改正と秩禄処分」)。たしかに領第1章主層の与えられた公債の利率は五分で額面金額は金禄元高の五i七・五か年分に対して、下士層の分は七分利で額面金額は金禄の一一・五i一四か年分とみられることからすれば、いわれるとおりである。しかしこの金禄公債の金利で得られる絶対額が問題である。金利生活が可能な層は、旧領主層あるいは旧上士層に限られたはずである。推定家禄が現石で二O九石を取得するものの金禄は九五O円とみられ、}れは最上の上士層であろう。明治六年の「徴兵令」により、もはや士族の常職はなくなっていたのであるが、その徴兵令によって軍職についた最下級少尉の年俸四八O円と比較したとき、最上の上士層の金禄公債の利子が遠く及ばないのは明らかであろう。「金禄五千円をとっていたほぽ長岡・飯田藩クラスの領主ではじめて、文官にして四等官、県令あるいは大蔵省大書記官(月俸二百円)程度の金利収入」が見込めたのである。商人資本から多額の借金をしていたとはいえ、仮にも一城の主として君臨した封建領主が、ここに四等官にまで落ちぶれたわけではあるが、旧領主あるいは華族については別に保護の手がさし伸べられていて、公債を資本とする華族銀行が設立され、さらには国立銀行に発展していくのであるが、その過程の解明は本節の課題ではない。他方、旧士族の大多数はみじめであった。すべての禄を金禄にかえた額は一七六七万円余、そのうちわずか四七六人にすぎない旧大名、公卿の禄は五一九万円余、三Oパーセント近い部分を占める。残る七Oパlセント余が約三二万人に配分されたので、士族一人当たり平均四O円である(井上清『明治維新』)。したがって、明治十七年までに金禄公債の八Oパーセントが士族の手を離れたといわれる。士族の窮迫した状況は、県内のいたるところでみられた。明治十六年の「地方巡察使報告」は「現今(茨城)県内ニ士族ノ数多シト難モ或ハ県庁ニ奉職シ或ハ郡役所ニ出仕シ或ハ警部巡査トナリ或ハ学校教員トナリ-:公債証書ハ漸々之ヲ売却シ家産ハ次第-一之ヲ減少スルハ士族一般ノ541