ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代現況」であるという。現転職に成功したものは右の報告から想像できるほど多くはないとみら近れる。茨城県の官員履歴から出された数字をみると(『茨城県史近現代V編』)、明治四年から十三年まで、茨城県に採用された官員五OO人中、士族は四二三人、八四パーセントを占める。しかし士族戸数三五OO余を占めた旧水戸藩出身の士族は九二人、一八パーセントにとどまる。維新後まで続いた藩内の党争がしからしめた数字であろうか。そして明治七年に発足した東京警視庁巡査に多くが採用されていった。明治十年に水戸・土浦を往復する乗合馬車が士族某の発起により開業したが、明治十五年に県会議長野口勝一が石岡から土浦まで乗車した感想を述ぺている。「双馬::北海道の老野馬に似たり故に之を鞭打てとも容易に動かず::馬丁ハ旧土浦藩士にして其名を赤塚と称し馬術を以て一藩の師たる人」という。さらに水戸では「風俗一変して料理屈にでも東京より芸者を呼下し、酌取女を置く様になりしかば、之がために士族の家禄奉還金は過半なくなりしなり」「もと困窮なりし者俄に数百金を得て心倣り、気ゆるみで前途の考えにも及ばず、或は遊蕩に散じ」たといわれ、金禄公債景気にわいていた。水戸の花街の芸者は一OO人をこえている反面で、士族の子女が酌婦になるのも多く、鳥鍋屋、鮪屋、汁粉屋等に出張していたという(同前書)。退職金の代りに支給された公債は、一時の豪遊で費消される涙金にすぎなかったわけである。しかし封建領主的土地所有制は、秩禄処分によって家臣団ともども解体されたのであり、旧幕府時代以来つづいてきた農民保有地を、私的所有地にしていく地租改正を確実なものにしていく点で、欠くことのできない過程であった。家禄の減少した士族に対して政府が開墾の奨励をは542開墾政策の登場じめるようになるのは、明治三年(一八七O)に民部省から各府藩県に下達された「荒蕪地開墾奨励の意見書」にみられる。すなわち「是迄ノ士族卒其家禄ヲ減シ、或ハ帰農商等ノ事ヲ以テ誘導スト難トモ」生業を営なませる方法がなくては生活は成り立たないので、国中の荒蕪地、不毛の地を士族開墾させれば、彼らは永代にわたり産をなすことができるばかりか、国力も増進するので一挙両得であるという。しかしここでは士族の開墾に特別の便宜をはかるとはされていなかった。様を戻したいわゆる還禄士族に対して、特別な形で官有荒蕪地の払下げをするようになるのは、ずっと遅く、明治六年の十二月に出された太政官第四二六号達「産業資本ノ為メ官有荒蕪地払下規則」をまたねばならない。}の聞やみくもに荒蕪地を開墾したために、弊害が生じ、むしろ開墾は制限されていた。}の規則は、土地代価の半額で払下げるばかりでなく、前項でみた明治六年の公債証書によって支払うことも認めるという優遇措置である。『茨城県農業史』は還禄士族が「商工業を営み、いわゆる「士族の商法」によって失敗し、下付された就産資金を失ってしまうことを防ぐため、なるべく彼らに土地を与えて農業を営ませ、}れによって就産の実をあげようとした事」によるとしている。)の措置は明治八年六月までつづく、}の聞に払下げられた土地は全国で八万五OOO町に達したといわれる。さらに窮迫した士族については無償下付さえ行なわれている。そのほか官有地の拝借も認められたが、これは一般に行なわれるような制度ではなく、人民の願いによって個別に許可された。明治十年の金禄公債証書の発行と最後の士族の反乱である西南戦争を経て、華士族の授産事業の必要性が高まるなか、明治十一年に内務卿大