ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

久保利通は「一般殖産華士族授産-一関スル建舌己を提出する。農は国の根幹であり、百事は農によって成るといい、華族および士族の「二族ヲ誘ヒ開産ノ法ヲ厚クシテ農事ヲ改良シ以テ元気ヲ旺盛ナラシメ」るために経費は六OO万円の巨額を要するが、その九分通りは返納されるといぃ、深慮熟考する暇はないと士族授産事業が差し迫った政策であると上申している。その大久保に対して、すでに明治八年、下総牧羊場の御雇外人ジョンスが茨城の広大な荒蕪地に着目して詳細な献策を提出していた(以下『茨城県農業史第一巻』)。「常総ノ地ノ三分ノ一ハ荒蕪ノ地ナリ」とし、「又タ下野、常陸、下総-一在ル荒蕪地ノ見込ミヲ左ニ上申セン」という。のうち、稲敷台地の阿見原および女化原についてつぎのように記す。土浦ヨリ水戸街道一里半ノ処ニ右もみの原ト呼フ地アリ。長サ十里ニシテ、広サ一里ナリ。此地モ他ノ原ト同様ノ植物ニテ被覆サル。荒川ヨリ水戸街道ヲ離レテ竜ヶ崎ニ至ルノ道-一赴ケハ、殆ト二里ノヲナパケ距離ニ於テ女化ノ原ニ来レリ。此原ハ広サ殆ト平方里ノ四分ノ三ナリ。此レニ接近シテ女化ノ社ノ正北-一殆ト六千反ノ良地アリ。此ノ地表面ニハ全ク柴アルコトナシ右にいう荒蕪地は、無主地ではなく、農民の入会地であり、「農民の新しい時代の幕開け入会地収奪の上に開墾事業は強行された」と同書は注記している。ジョンスはこれら荒蕪地を開拓して、一半に茶、桑を植え、他の一半に雑種の物産を植し、さらに畜産を行えば、多くの労力を要せず、応分の報償を得られるであろう。けだしあまたある世界の米作国で富裕な国はなく、弱貧困ばかりであるとも説く。第1章ジョンスの指摘にある「もみの原」は、「籾ノ原」(阿見原)で、後日明治十年に日本で初めて大農論を唱えて実践した津田出が開墾した千葉、茨城にまたがる広大な「十八農場」の第一農場にあたり、また「女化ノ原」はその第七、第八、第十四農場にあたるといわれる。そして十八農場を皮切りに以後明治十年代を通して、陸続として広大な県下の荒蕪地、未墾地に士族授産開墾事業が展開されるのである。「茨城県内における払下げ反別三四七町四反余、貸下げ反別五九二六町五反余で、全国の払下げおよび貸下げ反別の合計二万O七五五町八反余の三0・二パlセントを占めている」とは、吉川秀造の『士族授産の研究』を引いて『茨城県史近現代編』の述ぺるところである。ここでようやく、県内の開拓事業についてみることになる。そ『茨城県勧業年報第二回』明治十五年分は、当時県下の開拓事業の開拓農場についての記述を載せている。第V !日表は、『農業史資料第五号』がこれを整理して掲出したものである。表に従って主要な開拓農場のあらましをみておこう。弘農社農場については潮来町と密接に関係するので、別項においてみる}とにする。阿見原開拓前項で触れたように、阿見原開拓は、津田出の十八農場の第一農場である。表には新治、信太、河内三郡にまたがり、一二O九町の農場面積をもっとされるので、」れには県内にあった第七農場(柏田村H現牛久市)、第八、第十四農場(高崎村川現茎崎町)など、女化原の分もふくまれるとみなければならない。津田は和歌山県士族、紀州藩で藩制改革を手がけて成功し、手腕をかわれて維新政府に登用された。大蔵少輔から陸軍大輔になるが、明治八年に政界を退き、大農法開墾に着手した。一二OO町も開拓するというのであるから津田の計画は壮大といわれて然るべきであるが、計画の内実は明らかにされていない。明治十四年543