ブックタイトル潮来町史

ページ
556/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている556ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

れている。第V1U表では就産社の創業は明治十四年となっているが、丹下原に景況」(勧『業年報第二回』明治十五年)と成果が著しくないことが報じら就産社農場未タ其成果ヲ得ルニ至ラス客年ノ諸作ハ梢良果ヲ得タリシモ百般不振ノしてバーベキューガーデンが営なまれている。年以来開墾に着手スルト雌モ其ノ業広大ニシテ経営モ亦困難ナルヲ以テ二O町を購入し、ブドウ園の経営に乗り出す。現在なお牛久シャト!ともかかったと、津田自身が認めている。明治十四年には「既ニ〈明治〉十その翌年、明治三十年十月に静岡県の人神谷伝兵衛が女化原の原野一あり、急拠第二農場長と協議して蔓草の除去にあたったが、ニO日以上のは明治二十九年十月十日である。町余の農地は、ほとんど荒蕪地になろうとしていて、陸稲も枯死寸前で阿見原開墾の権利義務を土浦町色川三郎兵衛門ほか七名に譲渡された第V-ll表明治15年県内の開拓農場農場創始年度農場面積開拓者所在地阿見原開拓明治10年1209町34津田出新治,信太,河内3郡就産社農場明治14年198.28水戸藩士族東茨城郡見川村丹下弘農社農場明治13年70.62行方郡有志行方郡六十塚樹芸社農場明治14年401.09土浦務士族新治郡三村荒川沖農場明治14年139.47鹿児島県士族6名荒川沖鹿田原農場明治13年67.93下館藩士族舟木真鹿島郡鹿図原土田謙吉農場明治10年80.0土田謙吉筑波郡西酒丸村切な人材で蔓草がはびこって、五O徒労開墾の名」とうたったという(『農業史資料第五号』)。なかで、第一農場では使用人が不適津田は、「墾田失計の詩」を書き、二「十年一覚総州の夢、かち得たり正六年刊の『壷碑津田出小伝』の端であった。という。この年のことであろう。大を耕地にしたところで、農民らが譲り受けの標柱を立てたことがその発ついては石数代価ともに未定であるの年春から開拓地の譲り渡しがはじまり、遠方から移住開墾し、荒蕪地七七石(代価未定)、陸稲、落花生にらかであったが、残された土地の処分をめぐって起ったものである。v}五斤(代価一五円二銭一厘)、燕麦に及ぶ一件も起っている。}の期に及び、開拓は失敗に終ったことは明挙げる。収穫として小麦二四石七斗治二十五年になると、阿見原に移住した小作人が土地保有を求めて騒動畑一OO町、資本一万五五六七円をり、大農地のため地代が安いことが桑畑貸地広告にみられる。そして明農馬五三頭、開墾した田二町五反、明治二十年代になれば、開墾地は貸出される。地味は桑畑に適当であ実績として、役員三人、農夫一五人、であった。ている。さらに明治十年着手以来のが結ぼれた。原野六八町八反五畝の代金二OO円、立木伐採権が一O円ミ為メニ費用意外一一相嵩ム」と記しよって明治十九年三月五日、土地および立木が農場側に売渡される契約ルノ暇ナキヲ以テ収穫ハ無毛失廃ノ還と立木の伐採をめぐり農場側と農民側とで争論が起った。県の仲裁にVを始メ其他一般事業ノ得失ヲ研究スは明治十七年に農民の要求が通って、民有地に戻されたため、土地の返近年ハ開発ヲ専務トス故-一植物ノ適否入会地があり、地租改正のさいに、誤って官有地に編入された。入会地現年の阿見原開拓における実績を「客逆風が吹きはじめる。第七農場では津田が借下げた官有地の中に農民の代の『勧業年報第一回』は、明治十明治十年代の終りからは、阿見原開拓にも、追い打ちをかけるように544