ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

は古く天保四年(一八三三)に水戸藩主徳川斉昭が聞いた丹下原牧場があった。当初は牧馬だけであったが後には牧牛も兼ねるようになった。廃藩置県後は水戸の士族大高織右衛門が借用して、牛馬の繁殖をしていたが、明治十年八月に織右衛門が返納したため、県は牛馬を買上げて牧場を二分し、一方を放牧場とし、他を耕地としたといわれる(『勧業年報第一回』)。明治一三年に旧水戸藩士族十余名が発起人となり、同族数百名とともに牧場、牛馬、家屋などの払下げを出願し、就産社として明治十四年に発足した。さらに水戸田見小路にあった県の養蚕試験場を払下げ養蚕業も加えられていた。当初の事業資金は五万円ということであったが、明治十三年末に五年据置き、一0か年償還で二万一四OO円の士族授産金が貸与された。『茨城県勧業年報』が、「兼テ上願セシ政府ヨリノ拝借金ヲ特許ナリタルヲ以テ大ニ勢力ヲ得」といったのがこれであろう。養蚕業について「一層ノ蚕事ヲ拡強セント図リ田見小路蚕室諸器機等払下ケヲ受ケ及ヒ官有桑林ヲ拝借シ」とあり、当初の見込みは順調であったらしい。しかし水戸のことであるから「事業草創ノ際多少ノ困難アリ」、また士族の集団であるから「旧慣ノ脱セザルコト等アリテ進歩ノ障害ヲナス」こともあろうと一抹の不安も付け加えられている。}の年六月の『茨城県勧業雑誌』第二号は、就産社の養蚕について、県が貸与新しい時代の幕開けした那珂川両岸の桑葉で蚕を飼育したが、「蚕児強壮一一シテ近年稀ナル豊熟ヲ得ン」としたところ、炎暑がつづき、繭は平年ヨリ下品を結んだと述べている。それでも収穫した成繭は二七石を超えたという。牧畜についても、当初牛馬八二頭、産出一五頭、生乳九一石、乾乳三九五斤を産出してそれなりの成果が挙がっている。また耕作部門では耕第1章地二一町余、陸稲一三石、皮麦五九石、甘藷七O一貫、甘庶茎二七九貰、乾草二万OO六回貫などを収穫している。しかし順調な経営も明治十五年あたりまでであり、十六年から不況の影響をうけ、経営は悪化の一途をたどる。事業の縮小と経営の転換を図つでも回復することはなかった。明治三十年牧牛はすべて売却され、まもなく就産社は解散する(『茨城県農業史第一巻』)。樹芸社農場「本社ハ新治郡三村一一在リ旧土浦藩士族結社シテ開墾ニ従事セント一昨年十二月ヲ以テ原野反別四百壱町九畝七歩ノ地ヲ拝借シ文客年本課一一請フテ農馬十頭ヲ購求シ開墾ニ着手シ既一一弐拾町歩余播種シ目今殆ント三拾町余ヲ開墾セリ未タ細録スルニ足ルモノナシト雛トモ社員等奮発従事スルノ景況ナリ」と『茨城県勧業年報』第二回はいう。翌年の『年報』は、「本年初メテ実地ノ業ニ従へリ耕転ハ総テ泰西ノ農式一倣ヒ馬耕器ヲ以テ開拓-一着手ス:::既二ハ拾町ノ耕地ヲ開拓シタリ」とある。創業に際して旧土浦藩主から三000円の補助を得ているので、」の結斗ヰ+」阜、1i旧土浦藩士のための開墾結社である。社の組織も他の開墾農場とは異なり、株主制をとっていた。株主には二種類あり、毎年二O円ずつ三年間に六O円を出資するものが定期株主であり、年月五O銭ずつ十年聞に出資するものが延期株主である。明治十六年に定期株主二五五名、延期株主四O二名を数えた。開墾は一切本社で行ない、開墾後の耕地を漸次株主に配分するのであるが、一戸当り二町五反ずっとされ、資産の少ないであろう延期株主から配布されていった。開墾は西洋式の馬耕器によったと引用した『年報』にあるが、当時としては近代的装備をもって、二O名が開墾に従事したといわれる。明治十七年の『勧業年報第三回』によれば、反当開墾費用は人夫六人、馬八頭で平均二円四O銭とある。この時点で移住戸数四四、人口一二二人で、開墾は順調に進んだもののようである。開墾地の払下げは明治三十九年で、新治郡三村(石岡545