ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代市)ほか一七か村にわたる五一O町余が払下げられた。社が解散された現のは大正十五年(一九二六)である(『茨城県農業史第一巻』)。近鹿田原農場V旧下館藩士舟木真が一族数名とともに波東農社を設立して開設した士族開墾農場であり、鹿田原農場より波東農社の名のほうが有名である。舟木の出身地下館は筑波山の西であるが、筑波の反対側の東に社名が由来するのではないかとの説を唱える論者もいる。舟木については、「下総牧羊場の牧羊係をつとめた当時、前記米人ジョンスが下総牧羊場の経営指導にあたっていたので、彼の指導から学んだものである。したがって、津田農場および舟木農場を通じて、茨城県の開拓農場の経営については、ジョンスの指導献策が大きな足跡をのこしていると見るべきであ第五号』)と指摘されている。舟木の目ざしたのは、西洋型の大規模農場経営であった。ろう」(『農業史資料その中心になるのが牧畜である。洋式農具の貸与をちつけるが、多くは下総牧羊場の輸入したものである。県から受けた家畜は、農馬三頭、埴馬四頭、洋牛七頭とあり、畜力によって開墾がすすめられたことがわかる。ただ畜力器械を稼動させるためには熟練者が必要であり、農夫二名が農務局から派遣され、県立勧業試験場からも農夫が転出していた。ほぽ順調に開墾が進展したと思われる明治十六年に、波東農社の所有する家畜は牛一九頭、馬一七頭、騎馬四頭、羊四四九顕である。ちなみに開墾された牧地は七七・五町となる。羊四四九頭は、下総牧羊場での経験を生かして、農場経営を目ざした舟木の姿勢がうかがえる。さらにこの時点で水田一・八町、畑八一・五町、下草給源といわれる山林五九・八町が開墾されていた。畑については、前年の明治十五年の開墾済みの七四町のうち、三二町は社の直営地、四二町が貸付地として六一人に貸出されている。貸付地546といえば小作地が連想されるが、必ずしも小作地ではない。創業時の明治十三年にも貸付地は存在したが、それは「入植者を農夫として直営地経営に使用するためには、ある程度の土地を貸与し、その生活を維持することが必要とされたのみでなく、これら移住者の農産物を買入れて家畜飼料の一部にあてようとした」(『茨城県農業史第一巻』)ためであるといわれる。近代的大農場経営が賦役地代を徴収するという対比はいかにも奇妙である。創業当初は順調に事業は進んだものの、数年後に全国におよぶ不況のために明治十年代も終るころには事業は停滞していく。当時の状況からして、波東農社が力を入れた緬羊の国内需要が、多かったとは考えにくぃ。馬種改良繁殖資金として融資を得たり(明治十八年)、牛肉販売の目的で岩手から牛を四五頭購入し(明治十九年)、近隣農民に飼育を委託したり、乳牛の飼育もした。また社直営の耕種部門も規模を縮小している。かつて三一二町もあった直営地は六町にまで減少している。洋式農具を装備して広大な畑を疾駆した牛馬の姿は、みられなくなったはずである。その代りに貸付地が増加した。明治二十年の貸付地一二ニ町、小作人一O三人となっている。ここで西洋式大農経営を目ざした波東農社も明治後期を彩る零細耕作の小作制に移行したとみてよい。明治二十三年になると、小作貸付を専業とする方針が確認され、明治二十九年農社は解散する。ここでようやく行方郡に展開した弘農社についての検討に入ることになる(以下『玉造町史』『茨城県農業史第一巻』などによる)。