ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

新しい時代の幕開け第l章行方郡に展開した弘農社は、農民的開墾事業であり弘農社の設立士族授産事業とは、若干趣を異にする。たしかに公的保護を手厚く受けていたことは事実であろうが、明治十五年(一八八二)に破産した弘農社の社長に就任して社運を盛りかえした三好琢麿が旧麻生藩家老の出自であったことから、士族授産事業を連想させたためであろう。三好の社長就任は明治十一年に郡制施行と同時に行方郡長になり、長くその職を勤めた旧竜ヶ崎藩士族の飯島矩道により、態憩されたといわれる。大生原の弘農社開墾地弘農社設立の発端は、明治十三年三月に出された「原野開墾之義」にはじまる。このなかには、「行方郡人民総代」として三好が名を列ねている。次木村(北浦村)ほか三か村戸長額賀厚十、延方村戸長関沢高功、玉造村戸長大場伊三郎がこれである。右のうち額賀厚十(弘化元1明治二十七)はつぎのように記されている。塾を開き、子弟を教育。「小学校令発布せらるるに依り、塾を聞き、第V-22図其の後は専心開墾事業をなし〈中略〉明治十三年、郡長飯島矩道と謀り、武蔵野原野を開墾すぺく、弘農社を設立〈中略〉尚水産業の不振を患ひ、船舶器具の買入れに年賦償還の低利貸与の方法を講」じた。また、「一本枯死すれば十本」の家訓を作り、官民有地一二O町歩に槍・松・杉を植林した。区長、連合戸長を歴任(『茨城県農業史第五巻』)。また関沢高功は、それゆえに、}の開のち県吏となったといわれる。墾事業は士族授産よりは、下級官僚に主導された農民的開墾事業とみられなくもない。「開墾之義」には大生原(潮来町)一一一町八反、六十塚(麻生町、玉造町にまたがる)四四八町二反、小貫原(北浦村)二O二町五反など、七547