ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代七O町余の官有地を払下げて開墾する旨が記されている。}の願いは明現治十三年三月二十二日の日付けで出されているが、全五0ページにもお近よぶ「弘農社規則」には明治十三年二月の日付けがみられるところからVすると、願いは、かなり具体的な構想をもって出されたとみられる。郡長飯島矩道の後盾がものをいったのかどうか同年六月二十六日付で願いは知事により許可された。玉造町大場家に残る史料の中に、行方郡長宛の「御受書」が蔑されている。もちろん下書ではあろうが、日付は開墾願書に記された日付の翌日、明治十三年三月二十三日である。「今般於弘農社行方郡三原野(六十塚、小貫、大生のことである)致開墾旨趣意書願-一付字六十塚小貫原開墾故障之有無御尋一一御座候処右ハ於当村何等異存無御座候間:::」とあり、玉造村、手賀村、井上村、井貝村、小高村、南村、島並村、出沼村の八か村人民総代および戸長が連署されているという(『玉造町史』)。いってみれば、郡役所による意向調査であろうか、手回しがよすぎる。しかし六十塚の原野四四八町余のうち五一町三反七畝七歩は、行方村ほか六か村の株場にしておくため認められなかった。弘農社の目的とするところは、つぎにみるように全九八条から成る「規則」の第一条から第五か条に盛られている。第条社名を弘農社と称し行方郡の諸原野酔一日時一緒一詮初日開妙味を開墾する者とす但本社を六十塚原に置き左の分社出張所を配置す分社牛堀村出張所大生原小貫原第条本社の主眼とする所ハ専ら農事改良の点にありとす故に欧米諸国の農況を以て我邦の農事に比擬実験し農産蕃殖の階梯とす548第条本社ハ行方全郡の協力を以て設立する者なり故に該社に係る土地財産ハ総て全郡人民の共有物件とす但資金出途の多少により自ら共有の厚薄ある者とす若し赤貧等にして資金を出さ」るものハ共有の権利なかるへし第四条本社の結成期限ハ三十五ヶ年とす即明治十三年より同四十七年に到る期限後結社の奈何ハ更に株主会議の意旨に任すへし本社ハ飽迄行方郡の共有共立に係るを法とす故に他郷者に渉るを許さす仮令ハ本郡住籍者側封他郷に転居制転する者ハ此の共有権を失ふへし故に従前所持する所の株券ハ他人柑齢制へ譲る欺亦ハ本社に返還する欺何れの道移転先に於て有株する事を許さ第五条す但し新たに本郡に入籍する者ハ金百円以下の新株入を許すへし右にみるように、弘農社の目ざしたのは、行方郡の原野を開墾し、日本における欧米農法の実践することであった。社は行方郡全郡の人民が協力によって設立し、社にかかる財産はすべて人民の共有物とするが、資金を拠出しない者には権利を認めない。したがって社に参加できるのは郡内に居住する者だけに限られるといっている。以下弘農社の組織にかかわることなので、項を改めてみていく。さきに引いた規則の第一条にみたとおり弘農社は、本弘農社の組織社を六十塚原(麻生町)に置き、分社を牛堀村、出張所を大生原と小貫原(北浦村)に置いた。社の役員については、つぎのように規定されている。第七条本社は社長一名副社長二名幹事書記雇員農夫等を置き一切の社務を弁理せしむ市して正副社長の任免ハ委員並に世話役の公選とし幹事以下ハ正副社長の専決に任す但分社長及出張所事務担