ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代繁昌=t:) 1中根第十八部南高岡現第十九部北高岡小貫行戸幡山田近第二十部次木両宿内宿V平日長ノ江串挽第二十一部高田成田第二十二部野友青柳借宿半原右の付表にある二二小部とは、明治十一年七月に公布された郡区町村編成法で誕生した郡役所の管轄する連合町村に区域が重なっている。同法は従来の大区小区を改廃して郡(区)|町村という行政上の系列化を図っている。これには近世村が長い間培ってきた共同体を解体し、成立間もない政府に反対する勢力の温床としての機能を払拭する意図がみられるといわれてきた。連合村には戸長が置かれる。戸長はほぼ六OO戸に一人とされたため、日村数か村で一人が置かれることになる。その数か村の区域については、県から各郡長に宛てた通達に「其町村連合文ハ分裂ノ難易便否篤ト下問ノ上人民惣代連署ヲ以テ」決定されることになっていた。下問するのは郡役所であるから、官側主導で決定されたとみるべきであろう。行方郡役所の管轄する戸長数は二二、「弘農社規則」第六条にいう小部「委員ハ当分戸長へ依頼するも妨けなしとす」という戸長は、まさしく連合村の戸長であった。念のため付け加えれば、明治二十一年公布、翌年四月実施の市制町村制により、行方郡下七八か村が二二町村になる。新しく誕生した町村は、現在でも町村の大字としてその名を止めている。)のさいの村の組み合わせも、明治十一年の連合村とす分違えることなく一致しているのである。弘農社が行方郡役所の意図どおりに設立されていったとみられる理由の一つもここにある。ところで、最初に本社、分社、出張所はどのような機能をもっていたのであろうか。「第五章本分社維持規則」は以下のように定めている。第四十条本社及出張所は開墾の事業に従事す牛堀分社は商業を営552み本社需要の諸物品を買入れ本社に於て産出する穀物を売却し専ら本社の事業を便ならしむるを専用とする第四十一条分社の商法ハ穀物肥培物運賃荷為替の三者を主眼とし分社内規則を確守し専ら其事に従事すへし但分社内規則ハ本社正副社長及分社長の編製するものとす第四十二条出張所内規則及本社内部の取締規則等ハ専ら正副社長の編製するものとす但何等の部類に限らす規則と為る可き者ハ編製創施の際社長より三大部長へ報告するものとす本社、出張所は開墾を業とし、分社は商業面を担当する。すなわち分社は本社において必要な物品を購入し、本社の生産した穀物を他に販売する商業取引を基本とし、物品を輸送する運送業から荷為替を扱う銀行業まで営む総合商社であった。さきにみた職務分掌においては、役員が社員に対する監督指導について細かく規定されていたが、さらに第四十三条三大節の外社中に於て飲酒放歌等を厳禁すというように、厳格な規律も求められている。当時の三大節とは、新年、紀元節、天長節をいったのであろうが、その一二日を除いては、社内で酒を飲み、蛮声をあげて歌うことも禁じられた。そして規律はさらに、休日にまでおよぶ。第四十四条本分社及出張所は毎年一月四日社用始とし十二月廿七日社事を納む但大祭日並日曜日は休業とす右のような勤務形態はつい数年前までの日本において一般的であった。