ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
新しい時代の幕開け第l章んでいる。さらに第一大部の部長大場伊三郎の膝元の玉造村では出資したのは、全戸数三五三戸のうち一八四戸、他は「赤貧等ニシテ資金出サ、ルモノ」であった。したがって村の出金額も、当初計画の六Oパlセントにあたる六七O円に減額した。さきに引いた「規則」の第十五条にあるように二期に分け、半額ずつ払込むことにした。第一期は「規則」の期限よりずっと遅れて明治十三年末に徴収をはじめ、半額を超える三四七円五O銭を得た。しかし第二期分は明治十五年六月時に一二円五O銭が徴収されたにすぎない(『玉造町史』)。このような資金調達の状弘農社記念碑〔麻生町六十塚〕況は郡内の他村でもみられたことは、容易に推測できる。『茨城県勧業年報第二回』明治十五年は、明治十三年の実績について述べたものであると恩われるが、その一節に「本場(弘農社農場)ハ去ル十三年行方郡人民糾合シテ一社ヲ設ケ: : :而シテ開設爾来社員中紛議ヲ生シ為メニ事業大三家態ヲ来シ」との報告がみられる。「社員中紛議」というのは、社長選出に失敗して副社長二名のみという変則的な社の状第V-23図態をいうのか、資金調達の行きづまりをいうのか、あるいは僅かな史料ではうかがうことのできない事態をいうのか、はっきりしない。弘農社は明治十五年に三好琢磨を社長に迎えることになる。三好琢磨の事績については、『茨城県農業史』第五巻につぎの記述をみることができる。ニ好琢磨(天保一三|大正八)少壮麻生藩吏として声望あり。明治の初め、藩士禄を失ひ、生業の途に迷ふに当り、建議して農桑奨励の法を実行せしめ、廃藩置県の後、或は郡吏となり、或は県会議員となり、最も力を殖産興業に注ぎ、明治十五年、弘農社衰運に陥り、殆と救ふべからざるに至るや、推されて社長となり、経営惨憐幾多の簸難に耐へ、十四年を費して、555