ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代遂に五百五十余町歩を開拓し、以て社業を完成せしめ〈中略〉又は私現有地二万余坪を公園となし、私財を描て之を経営」した。明治四二近V年知事表彰。町農会長、郡農会副会長、同会長等を歴任。また、『茨城県農業史』第一巻は、履歴書を引いたのであろうか、弘安政六年六月農社以前をつぎのように記している。御近侍役被召出也文久元年二月文久二年二月文久三年二月元治元年六月明治元年二月二年十月十月三年四月七月四年五年十年十月十三年七月十五年五月十月三好については、家督被仰付家様百七十石被下候旨御半IJ物頂戴也弓術世話役被仰付也江戸勤番中御門開閉三府札役被仰付也御用人役被仰付也軍務総長被命麻生藩小参事拝命軍務総長督学兼務拝命麻生藩権大参事宣下御下問済ニ付参朝被仰帰藩改革-一従事ス廃藩置県-一際シ追テ御沙汰候迄新置参事ノ差図ヲ受ケ従前ノ庁ニテ事務可取扱旨被命月旧藩諸務為引継新治県へ出張月行方郡書記拝命月給拾弐円下賜庶務勧業学務衛生係被命農事通信委員兼務職務勉励-一付月給四分ノ一下賜弘農社創立顧問嘱託サル弘農社社長委託-一付郡書記辞任県会議員補欠当選その出自が麻生藩家老であることが喧伝されているが、履歴にみられるとおり、彼は行方郡役所において郡長飯島矩道の下556僚であった。飯島の殖産興業策を説かれたことは、社中の誰にも劣ることはなかったはずである。あるいは弘農社の顧問にとどまっていた彼は飯島によって弘農社の社長に据えられたのかもしれない。社長就任後、飯島の仲介により、土浦五十銀行から資金を導入したり、明治十九年には世襲財産の山林八O町歩を売却して社の資金にしている。前項でみた『勧業年報第二回』は、「社員中紛議」を弘農社の経営生じて事業は衰退しているため、明治十三年分の実績は掲載できないといっている。しかし資金調達が難航していても、開墾事業は進行していたとみられる。おそらく郡から県を経由したのであろうが、明治十三年九月二十九日付で、農務局七等平野和親が「茨城県へ馬耕施行ノ為農夫差遣伺」の文書を起している。茨城県下常陸国行方郡住民一同挙テ泰西馬耕法ヲ施行シ同郡中字大生原外-一原ヲ開墾セント嚢-一出願候処允可ヲ得目今着手候-一付該馬耕方法伝授ノ為局員季田六等属出張被命候一一付テハ下総種畜場農夫ノ内事業熟練ノ者二名本局へ編入ノ上該地へ差遣相成度伺之右辞令案相伺候也(『茨城県史料近代産業編I』原史料は「農務顛末」第十九)弘農社の欧米の馬耕法による開墾が許可され、馬耕法伝授の要請があったので、局員が出張して調査したところ、下総種畜場の熟練の農夫二名を派遣することにしたというのである。農夫二名に対する「辞令」の案によれば、一名は下総種畜場三等農業生長谷川清次で滞在中の日給は五O銭、他は八等牧夫金山猪之助で日給四O銭とある。日給によって派遣ということであれば、それほどの期間滞在したとは思われない。ただ彼らの日給は破格であったとみてよく、「弘農社規則」によれば、四O銭は社長、副社長に該当する。日当