ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

新しい時代の幕開け第1:章この年の社の陣容は社員三名、農夫五名、耕馬一O頭といかにも小規様であった。ただ作付面積は、直営地について大麦五町、小麦一O町、燕麦一O町の冬作があり、二五町は経営したとみられる。夏作は陸稲一五町、水稲、蕎麦各五町となっている。他方「移住者ノ分」とされる小作地では、冬作の大麦、小麦各一O町とされ、夏作では陸稲一五町、大豆、蕎麦各五町とある。したがって、貸付地は二O町ないし二五町はあったとみられる。これらの作目の反当収量についてみれば、小作経営のほうが、直営地六十塚あたりの現侃〔卓造町〕経営を上回っている。小面積の耕地では大農経営の優位が崩れているとみられる。しかし、収量は行方郡平均を上回る。弘農社の直営地における大麦の反当収量一石六斗(小作地では一石八斗)であるが、明治十六年の行方郡の平均反収八斗二升を大きく上回る。小麦、大豆についても郡の平均反収をしのぐ。明治十七年の『茨城県勧業年報第四回』では、九月における二度の台風で「作毛殆ト皆無ニ均シキ有様」で収量は前年の三分の一にとどま第V-24図そればかりでなく、強風は弘農社の建物をも倒壊させている。「収穫舎鳩山ル馬舎一規糾器械入置場官珊酔」の三棟が倒れ、四間半、一六聞の一棟を新築し、馬舎、器械舎に充当したという。行方台地の自然条るとある。件は苛酷であったというべきであろう。したがって収量は惨めな減少をみせた。陸稲の反収は直営地でなんと五升、小作地でも三斗にとどまっている。からくも大麦、小麦が郡の平均反収を抜いたにすぎない。またこの年の作付面積から推して、新しく開墾された耕地はみられず、「年報」のいうように「少許ノ開墾地ノ耕転ヲ」したにすぎなかったようである。社員も前年どおりの員数であった。資金調達の停滞が大きく影響していたものと思われる。559