ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代それにもかかわらず、社は明治十六年二月に「農具社」を吸収してい現る。「農具社有志をおこしたは、いずれも麻生藩士であり、その幹事役近は小沼澄衛らであった」(『玉造町史』)といわれている。V農具社は弘農社と同時期に設立されたが、設立趣意書はつぎのように、、,。、v -e従前我邦ノ農具ヲシテ洋米諸国ノ農器一一比擬シ極メテ軽便ニシテ鴻大ナル農益ヲ起スニ堪ユル所ノ農具ヲ製造シ以テ世-一公ニシ専ラ前途良農諸君ノ股富謀リ以テ当社ノ富裕ト為シ欧米の大農法に適した重装備の農具を模擬して零細耕作の日本型農業に合う「軽便ノ馬耕器械」を製造販売して農家の樽益をはかるというのである。当面本社は茨城県下常陸国行方郡牛堀村に置き、出張所を東京府下に設けるとあるが、「社業の進歩に随ヒ各府県下-一支分社ヲ配置」(「農具社規則」第二条)するという壮大な計画であった。どのような軽便馬耕器を製造したのか、あるいはしなかったのか、史料を欠く。製造係が出来高払いで手間賃を職工に支払い、製造検査のうえ売捌係に引渡す(「規則」第五十九条)とある。規則は弘農社のそれと酷似しているし、「本社位置之義ハ創始之際社務之都合ニ依リ当分本郡麻生村ニ仮設ス」と付記があり、開業当初から弘農社の付属施設と見込まれていたものとみられる。農具社の資本金は一万円、}れを六O株に分け一株一六六円六六銭、一株の分割は認められていない。この株を五年一O期で払込むとされる(「規則」第四条)。酷ではあるが、麻生藩のような小藩の藩士が金禄公債で支払える額ではない。一般的に明治十年代にはじまる開墾事業が農民の入会弘由民社の解散地の収奪によって強行されたことは、はじめに述ぺたところである。開拓事業の進行の過程で近隣農民と入会地紛争がみられたことも、例示されたいくつかの間墾事例においてみ560られた。弘農社といえども、その例外ではなかった。明治十四年には六十塚原をめぐって入会地紛争が起きている(『茨域県史近現代編』)。六十塚原のうち、字中野原、字秋山沢、字金地平の三か所三二五町は、旧幕時代以来、行方村、於下村、舟子村、藤井村、五丁目村(以上麻生町)、藤井村、荒宿村(玉造町)、小幡村(北浦村)八か村の入会株場であった。弘農社設立のさいに五一町三反七畝七歩の貸下げを拒否されたことを前に述ぺたが、それがこの三二五町の一部であろう。地租改正の官民有地区分にさいして、誤って官有地に編入されたのが紛争をもたらしたのである。県の措置は、八か村農民を納得させることはできなかった。明治十五年三月に農民は東京上等裁判所(のち東京控訴裁判所)に県を被告として行政訴訟を起こす。訴状のあらましを『玉造町史』はつぎのように要約している。抹場をこのように縮小されては田畑の肥料を失い、原告人民が所有する五八O町歩余の収穫は減少し、五OO戸二六OO人余の人民はその家計をたてる道を失い、「流離退転」の不幸に陥ることともなるので、該地全部の原状回復を再願した。ところが県令はこれを認めず、そのAノえ、}の五一町歩余を除く該地全部を弘農社へ貸付けてしまった。}の処分は、官有地払下げに関する太政官布告や払下げ処分の慣例にも違反して不当である。また原告らの数度の払下げ撤回の請願に対して、相当の説明をなそうとしなかった被告側の態度は、不当である。裁判の過程で農民側は示談の意向をもち、原野地の三分の一を八か村に分与する案が出される。県は行方郡長に対し弘農社の「説諭之上承諾之成否」を回答するよう求めた。社長に就任した三好琢磨は拒絶する。