ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
社の内部でも、諾否について意見が分かれたといわれる。判決は明治十七年四月八日に出る。原告に訴訟の権利はないとして、原告全面敗訴の判決であった。県が原告のいう土地を処分するさいに地元村民の意向を調査するのは当然であるが、それは行政当局のためになす調査であり、農民は行政に対し「只請願ノ道アルノミ」というのが判決の骨子である。いかにも明治政府の裁判所の判決ではあろう。さらに明治十五、六年ごろには、土地の境界をめぐって小幡村(北浦村)、四鹿村(麻生町)と紛争があったといわれる(『玉造町史』)。県官が出張して仲裁に当り解決したといわれるが、詳細は不明である。このように弘農社は、険しい道を歩んだのである。明治十年代も終るころに社長の三好が私財を投げて経営資金に注ぎこんだことは前に述ぺた。三好に限らず、副社長の額賀厚十も応分以上の拠出をしたであろう}とは、三好が、いつのことであろうか、「生ヲ救護センモノ額賀厚十其人ニシテ畢生忘ルル能ハサルナリ」(『茨城県農業史第一巻』)と記していることからもうかがえる。明治二十五年の実績であろうか、六か村にまたがる六十塚の開墾実績は四四八町二反九畝二O歩、内訳は要村(北浦村)南高岡および小幡一八二町八反余、津澄村(同)二町六反余、小高村(麻生町)八六町九反余、行新しい時代の幕開け方村(同)九九町七反余、大和村(同)三十町七反余、玉川村(玉造町)四四町四反余である。さらに大生原村一O一町八反二畝一二歩を加えれば、開墾面積は五六O町一反二畝二歩にもなる。しかし社の収支は明治二十五年を境にして赤字になる。明治二十五年四月二十八日に開墾した耕地は金九五五円余で払下げら第l章れる。土地は株の出資高に応じて配分される建前ではあったろうが、「実際には有力な農民層の所有」となり、「この地域の有力農民層の土地所有の増大として結果」(『玉造町史』)したといわれるが、そのとおりであろう。明治十年代にはじまる大農経営は、明治二十年代から三十年代にかけてほとんどが失敗し、明治後期以降戦前まで支配的であった、零細耕作の小作地経営に変身を遂げるのが一般的であったが、この点でもまた弘農社は、その例外でなかった。明治二十八年七月三十日、泰西農具の使用による大規模農法の実践をめざした弘農社は、解散した。しかし大農経営は、文明開化の一期のあだ花として葬り去られたわけではない。明治四十四年に茨城県新治郡上大津村神立(土浦市)に設置された茨城県模範農場は、西洋農具の使用による大規模経営の実践をめざして、茨城県農業史の舞台に登場するのである(『茨城県農業史料農業近代化論の系譜』)。561