ブックタイトル潮来町史

ページ
574/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている574ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

代現近第六節農業生産の諸相V明治維新政府は、地租改正と秩禄処分によって、古い封統計調査のはじまり建的な経済関係を拭い去り、新しい資本関係を創り出すために努めていた。封建的な経済関係は、一つの領国内で完結するのであるが、幕末期ともなれば、領国を越えた関係が結ばれてきた。しかし、前の二つの節でみたように、地租改正といい、秩禄処分といい、全国規模で行なわねばならなかった点において、明治政府は困難に直面し、乗り越えていった。そのために多くの国民が犠牲を強いられたことはいうまでもない。封建的な経済関係を廃棄し、新しく資本関係を創出するためには、近代産業の存在が不可欠であった。幕末といえども日本の封建社会では産業資本の成長は未成熟であったために強力な国家権力が近代産業の保護育成に当たらねばならなかった。明治政府がとなえた富国強兵、殖産輿業というスローガンは、広汎な近代産業育成のための政策の標語であった。前節でみた士族授産も、農業における殖産興業策の表現の一つとみられる。欧米型の大型農法により、産額を大幅にあげ、国富を増大させる意図がくみとれるのである。殖産興業に限らず、政策にとって、計数は不可欠である。したがって、明治中央政府も、政策的必要に迫られて、統計調査に着手する。はじめは、明治二年(一八六九)の村高調査、}れは成立した新政府の財源を確保するため、貢租の額を正確に把握するのに不可欠であった。翌年には人口調査と物産調査がはじまる。明治三年九月二十四日に民部省の出した「府県物産表差出ノ件」は、「別紙之通太政官ヨリ御達有之候処人口562取調之儀ハ先般当省-一於テ相達候-一付取調中ニ可有之就テハ産物ノ儀モ別紙雛形之通リ一同取調日数三十日ヲ限リ可差出事」と府県に通達してL、h Oed-右の通達からは、民部省において物産調査に先立って、人口取調を指示したことが読みとれる。人口調査についていえば、明治四年四月に戸籍法が定められ、翌年二月より実施されるようになる。戸長役場が編製した世にいわれる壬申戸籍がこれであり、明治六年一月に布告される徴兵令の伏線としてみるべきである。)こに維新政権の掲げたスローガンの一つ、富国強兵の礎が築かれたのである。さらに明治六年七月には、地租改正条例が布告され、明治政府の財政的確立を図る土地調査がはじまった。したがって、壬申戸籍と地租改正が、政府の人民支配の車の両輪であったことは、第三節で述ぺたとおりである。物産調査は、維新政権の掲げたもう一つのスローガン殖産興業の基礎になる調査であった。さきの通達の別紙では「土地物産多寡を検顛致候ハ政典ノ急務-一シテ国力ノ厚薄貧富ヲ詳明スル処-一候就テハ山川海陸ノ物産並人工ニ係リ候品類トモ其管内取調不洩様記載可致事」といい、農産物や水産物に限ることなく、工業製品まで取調べることを指示している。雛形では「何府何県物産表」として調査すべき産物が挙げられている。これを農産物についてみれば、米、雑穀などの一般農産物は当然として、茶葉、漆、蝋、木綿、麻狩、染草など工芸作物の細かなものにまで及んでいる。ちなみにいえば、全国的統計事業が本格化するのは、明治十四年に太政官に統計院が設置されてからであり、翌年には第一回の『統計年鑑』が刊行されるが、)れには各省の統計が収められている。