ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

ごく初期の物産取調は右にみたとおり、明治三年九月明治三年釜谷村産物取調に指示されるのであるが、明治三年に調査がどの程度行なわれたかは、明らかでない。新治県はいうに及ばず、旧茨城県でも、調査結果を集計した断片すら残されていないし、全国の集計すら残されていないので、幻の取調に終ったのではないかと思われてきた。しかし平成三年に調査された釜谷区有文書の中に、明治三年物産取調の結果を記した小冊子があった。(年)小冊子の表紙は、「三ヶ稔産物取調書上第三大区小二区谷郁」とあり、「明治三年庚午年分」として、行方郡釜つぎのように物産と収穫高が記されている。米三百廿五石但現石此貢米百十九石九斗九升一合同百廿壱石五斗現石大生村出石此貢米四拾壱石壱斗貢米〆百六拾壱石三斗九升壱合米弐百八拾五石壱斗壱升自用費消同四拾弐石四斗九升一合自用不足分麦三拾五石自用費消新しい時代の幕開け大豆//弐拾三石五斗小豆弐拾壱石壱斗ノf胡麻壱斗弐升ノ麦三石壱斗〆/粟三石弐斗ノ第1章菜種〆ノ四石八斗味日曾九拾本f〆延弐千五百枚代金五十円他国輸出薪弐千四百駄自用費消蔓八貰五百目//綿拾弐貫〆/薩摩いも弐百五十俵/〆艦代田拾四円他国輸出北浦沿岸の釜谷村は、明治二十一年の数字では(『玉造町史』)、戸数五三戸、人口二九O人、反別九一町、行方郡内では、中位の村であった。最も主な作物である米は、}の年には四二石余り不足している。もちろん貢米(収穫高の三四i一二六パーセントにあたる)さえとられなければ充分間に合うばかりでなく、他へ輸出できたはずである。しかし大生原村へ出作りしている分がなければ、とてもまかないきれない。表紙にあるよ沿っに}の史料では、明治四年分、五年分の数字も、同じ型式で載せられている。この二年分は、とくに明治五年は作に恵まれたらしく、現石が四二九石にもなり、自用費消分は三二七石六斗であるから、貢米が若干増加したものの、六七石九升七合を他国輸出に回し、二O九円六七銭八厘の代金を得ている。したがって釜谷村は米で成り立っていたとみられる。ほかに換金できる物産は、藍と北浦で獲れる魚であるが、金額からいってとるに足りない。また明治五年には薩摩芋を三OO俵収穫したうち五O俵を他国費消に回して六円二五銭を得ている。廷についていえば、鹿島郡軽野村(神栖町)あるいは延方村あたりの藁工品は有名であった。とくに軽野村では、裏廷あるいは神奈川廷を他府県に輸出しているが、大正期に九二万枚も輸出しているというから比較にならない(『茨城県の農家副業続編』)。その他の物産は、すぺて自用費消にあてられるもので、563みそ、薪、fこ