ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代小漁、縄ナヒ、藻草刈相稼申候」とあり、農業の合間に行なわれた小規現模な漁業、縄絢い、藻草刈りの成果は、物産書上に計上されていない。近そのための不正確を誘られるほうが、)のような余業まで書きあげ、内V務省布達前文がいう「人民ノ勉否ヲ照考」されるよりは、ましということであろう。これに反して、釜谷村では、内務省の布達に沿って、あらゆる物産が計上されている。釜谷区有文書の中からたどれる物産書上は、さきの明治三年のほか、明治七年、八年、十年、十二年である。明治三年を除く四年は第Vlm表にみるとおりである。明治三年に掲出されたのは一五品目にすぎなかったが、明治七年二七品目、八年三二品目、十年二七品目、十二年三五品目と二倍を越える増加をみせている。品目が増加したのは、たとえば日用品といってもいい沢庵漬のように、売買のともなわない自家消費を目的に生産された物産が、価格を見積って載せられているためである。ただ、鶏卵とか、水産物は、村を回って来る小商人らに売却されて、貴重な現金をもたらした可能性は否定できない。表では明治八年以降に清酒が登場し、産額は変動が急であるものの、明治十二年に一六O石も生産されているのが目をひく、醸造家はご戸であろうし、大洲村と似たような事情があると考えられる。物産全体をみれば、米の持っている位置の重さが明白である。明治七年における産額三OO石は、下米が多く、中米、上米の順となっている。明治八年には産額が一・二倍にも伸びたのに、価額では一・O四倍と低い伸びにとどまっている。収量の伸びたのは、下米、中米で、上米はむしろ減少しているためである。したがって、北浦に面したこの釜谷村でも、大洲村と同様に、耕地は「其質不宜」、上質の米を得るのはむずかしかったのであろう。年次をたどって米の産額をみると、明治七年三OO石、八年三六O石、568十年三七O石、十二年四OO石と上昇している。しかし、明治三年の物産表でみたように、}の村で消費される米は四四六石が収穫されたこの年でも、四二石余の「自用不足分」を生じたのであるから、四OO石の収穫では到底まかないきれない。第四節にみたように、地租改正によって、水戸藩領では減租をみたのであるが、麻生藩領であった釜谷村がその恩恵に浴したかどうか。地価の二・五パーセントの地租は、旧幕時代の貢租をほぼ受け継いだはずで、それが金納となったのである。釜谷村では、物産総生産額における米の価額の占める割合は実に六五パ!セントにもなる。村内最大の商品作物が米であった。その米を売却して地租を支払えば、自用費消の米が不足するはずである。以後明治十年代に、農民は地租改正によって一たんは自らの手中に収めた耕地を失い、小作農民として、小作料の重圧にあえぐことになる。前項でみた物産調ぺの結果は、内務省勧業寮が編さんし明治七年府県物産表た「明治七年府県物産表」として刊行された。標題の示すように、府県単位に掲載されているので、町村別にたどることはできない。明治七年時に行方郡は新治県所属であったので、旧茨城県とともに、新治県の数字についてみたのが第V1 H表である。旧茨城、新治の両県を比較してみれば物産合計において、新治が旧茨城を大きく上回っている。」れは集計範囲が新治において、より大きかったためとみられる。旧茨城県においては常陸国五郡であったのに対し、新治県では、常陸国六郡、そのうえに下総国三郡まで包含していたのである。表において、当然ではあるが、両県とも農作物の構成比が高く、とりわけ米の比重が産額全体の半数に近い。しかし全国府県の合計でみれば、