ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代農作物計は物産総額の三八パーセントであり、その農作物のうち六三パ現1セントが米である。新治県では、農作物中に占める米の構成比は七近五・一ニパーセントにもなり、旧茨城県の六九・三パーセントを大きく上回Vっているのである。新治県のもつ霞ヶ浦、北浦沿岸、利根川流域の広大な低湿地の水団地帯が、この結果をもたらしたのである。圧倒的農業生産の優位は、工業生産の低位となる。雑工業の構成比の低さがその反映である。新治県では一・一パーセントにとどまっているのである。しかし相対的に高い比率の旧茨城県でも、その内容は貧弱である。軽工業のうちでも原生的工業といわれる飲食物類がその中心に位置している。}れらは、製茶、鰹節、漬物、横である。食品工業とはいっても新治県の醸造物類には、数字以上のものがある。明治前期においても、醸造業は、繭糸・織物業の対極をなす。全国的にみても、日本の代表的工業は右の二業種に尽きる。新治県の醸造業は、とくに霞ヶ浦沿岸地帯において、江戸初期以来の伝統がある。とくに醤油は千葉ともども大消費地江戸の需要をまかなっていた。表には載せられていないが、新治県の大豆生産額は全国六位に位置づけられる。また醤油の生産量では全国の一九パーセントを占めて第三位、生産額では千葉県についで第二位である。量より質が勝っているのである。良質の大豆と震ヶ浦、利根川の水運の便とが、霞ヶ浦沿岸地域に醤油醸造業を発達させたのである。さらに醸造物類の中昧をみれば、新治県では産額で醤油三二パーセント、味噌三一パーセント、酒三七パーセントとなっている。産額で三者がほぼ同率を占めていることから、清酒も味噌も、自家消費でなく移出に向けられていたのであろう。大洲村や釜谷村の清酒も、あるいは江戸に向う高瀬船に積まれたかもしれない。前項でみた「明治七年府県物産表」に記載された数字570明治十年行方郡の農産物は、県段階の数字であり、新治県のように常陸国六郡、下総国三郡の大世帯の県では、村はいうに及ばず、郡の数字でさえ県の数字のなかに埋没してしまうきらいがあった。したがって、特有作物や農産製造品のうちでも、局地的展開をとげた物産は、必ずしも明瞭に浮かびあがってはこない。「明治十年全国農産表全しーは、時期は数年隔たるものの、郡別の数字が示されているので利用に便利である。第V日表が、その物産表の常陸国「行方郡八拾二ヶ村」の数字を整理したものである。もとの表では、作付面積、収量、単価が記されているが、さらに価額を計算して掲出した。当然ながら、表中実綿以下の農産製造品および水産物については作付面積は記載されていない。表において、第一に米の比重の高さをここでも指摘しなければならなぃ。さきの新治県でみられた構成比を、行方郡ではさらに上回っている。この年の反当収量は一・二八九石で県内一八郡の第一位、県平均反収は0・九二石であった。収量は年によって大きく増減するので、この年をもって行方郡の米作水準の高さをいうことは適当ではない。しかし、大洲村でみたような不利な耕作条件を克服するための努力が営々として続いていることがうかがえる。明治十四年四月二十五日から三十日まで、春の勧業世話役諮問会が開かれた。世話役は県下全郡からて二名ずつ二八名が選ばれているが、行方郡からは、潮来村の宮本寛太郎と玉造村の大場惣介が会員として出席していた。第一日目は籾の選種及び貯蔵方法が議題になっていた。宮本は「当地方ハ深田多キ故に茎ノ強ク丈ノ長キヲ選ミ種ヲ取ル其法一包中ノ粗悪ナルヲ除去シテ精良ナルモノヲ種子トス」といい、低湿地の水田では、茎が強く丈の長い稲を作り出すために、とくに種子用に株