ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代に足らない。この年に藍葉は一八OO貫余であるが、物産表では「藍」現)れは「藍葉」であった。どこへどういう経とあるだけであったが近路で移出されていったのか、追跡の手だてはない。V最後に水産加工品の乾エピ、乾魚が、産額の一六パーセントを占めている。郡にとっては、重要な産物であったことは確実である。さきに引いた勧農世話役諮問会で、信太郡の宮本治平は、「我地方ニ於テ尤モ盛ンナル物産ハ霞浦ノ桜海老ト称スルモノ之レナリ一ヶ年ノ収穫ヲ算スル-一大凡二十万円ニモ至ラン歎」と景気のいい話をしていた。しかし、れを中国に輸出しようとして、「新治郡土浦町浅野権左衛門ナルモノニ托シ海老一斗ヲ製シ彼ノ国-一在留セル者へ逓送セリ然ルニ船中数十日ヲ経E其製ノ粗造ナリシヤ多ク徽ヲ生シ到着スルモ遂ニ不信ヲ受ケタリ」と顛末はきわめてよくない。日本の近代史を通して、茨城県の物産は、粗製濫造をもって必ずしも評価は高くなかったのであるが、桜エピが「粗造」のゆえに不信を受けたのは、その走りであろうか。行方郡にとって、高い産額をみせた漁業も、けしてパラ色の夢につつまれた将来が約束されていたわけではない。大場はつぎのように、乱獲のため将来は不安であるといい、漁獲量の制限を提唱している。我地方川漁ハ従来ヨリ行ハル漸ク人知ノ進捗-一随テ漁業方法密-一至レリ因テ此制限方法ヲ今日ニ設ケスンハ多年ヲ出テスシテ水族ヲ断ツニ至ラン尤モ憂フへキコトトス三四年前ヨリ小魚ヲ漁スルニ変法ヲ以テセリ其法船ノ横-一直帆ヲ掲ケ夫レへ網ヲカケテ引ク漁獲頗ル多シトス潮来村の宮本寛太郎も大場にならって、漁獲量の制限を求める。震浦ノ海老ハ我地方-一アリテハ最彩多ナル物産ナリ市シテ其海老十年前ノ中海老ハ当時ノ大海老ト比較スコレ他ナシ方今ハ従前ト異ナリテ春夏秋冬ノ別ナク漁業盛ンニ行ハル故一一生長一一間隙ナキカ為メ572ナリ依テ大場氏ノ説ノ如ク制限方法ヲ設ケラレタシ維新後一五年で、早くも濫獲の弊害に見舞われていたのである。V}