ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第七節利根川水運と潮来近代利根川水運の展開近世における下利根川、震ヶ浦、北浦の水運は、近世編第三章第二節「仙台河岸と津軽河岸」などでも記したように、東廻り海運と結びつき東北地方から江戸への遠隔地輸送の一部をなすという性格と鹿行地方と江戸とを結び付け、江戸地廻り経済を構成するという二つの性格に加えて、水郷遊覧という観光輸送の性格を持っていた。そのことは、わが国有数の広大な内水面と接しているという地理的条件と相倹って、潮来地方を含む鹿行二郡の物資及ぴ旅客輸送を大きく水運に依存させることになった。そして、そのことが明治中期以降に急速に形成される圏内幹線鉄道網から、鹿行地方を孤立させていったのである。圏内幹線鉄道網が形成された、明治中期におけるわが国の内陸水運全体と利根川水運のようすを、黒崎千晴氏の研究によって概観しよう(『近代日本輸送史』)。明治二十五年(一八九二)から三十二年にかけて実施された「河川調査」によれば、船舶が航行できる内陸河川の総延長が五里新しい時代の幕開け(約二0キロメートル)以上である河川水系は全国に七二個所あり、さらに可航延長が一O里(約四0キロ)以上の河川水系は六七個所を数えた。それらの可航航路の総延長は、二五OO里(約一万一五0キロ)にも及んだ。したがって、内陸河川を運輸に利用するという点では、明治中期は近世よりも活発であった。第l章また、川船の総数は九万三一三O隻に及んだ。』P』、、』?J、JJJJ?Lその大半は五O石未満の小型船であり、明治中期の内陸河川で使用されていた船舶は、利根川を行く高瀬船(千葉県立大利根博物館提供)第V-25図573